書かれ始めたハメス・ロドリゲスの神話 母国の英雄バルデラマが跡継ぎと認めた男

木村かや子

“ハメスの洗礼”、PSGの度肝を抜いた決勝ゴール

W杯での活躍により注目を集めるハメス・ロドリゲス。母国コロンビアやポルトガル、フランスでは神童として、その名を知られていた 【Getty Images】

 世界のファンが今になって発見したらしいハメス・ロドリゲスは、母国コロンビアではごく幼い頃から、ポルトガルのポルトでは少なくとも3年前から、そしてフランスでは、およそ1年半ほど前から、世界的一流選手になることを約束された神童として、その名を知られていた。

 フランスのサッカー愛好家がJ・ロドリゲスの真価を知るのは、彼がモナコに参入した後の2013−14シーズンを通してだったとしても、より熱心なファンは、12年の秋にはすでに“ハメスの洗礼”を受けていた。12−13シーズンのチャンピオンズリーグでポルトがパリ・サンジェルマン(PSG)を1−0で破った際に、1本のゴールでズラタン・イブラヒモビッチ率いるPSGを沈めたのが、当時ポルトの選手だった彼なのである。ジョアン・モウティーニョの左サイドからのクロスをフェルナンドがヘッドで流し、J・ロドリゲスがペナルティーエリア内右端から、左足でファーポスト側に決勝ゴールをたたき込む――そのシーンは、見る者の脳に強烈な印象を焼き付けた。

 それでも、そのJ・ロドリゲスとモウティーニョが、翌年の春にセットでポルトからモナコに移籍した際、当時21歳の若手の獲得に払われた4500万ユーロ(約63億円)というフランス・リーグアン最高記録の移籍金を、やや過剰だと見る者もいた(この記録はその数日後、6000万ユーロ『約83億円』で移籍した同じコロンビアのFWラダメル・ファルカオに破られる)。しかしこれが良い買い物だったと皆が気づき始めるのに、そう長い時間はかからなかった。

天性のパサーを支える頭の回転の速さ

 ボールを懐に引き込むようにしてファーサイドの隅を射止めるシュートは、彼の十八番のひとつだ。しかしさまざまな形で決められることが、彼の強みでもある。FKや、ミドルシュートからも頻繁に得点を挙げており、左利きだが、状況に応じて右足で決めることも、ヘッドでゴールすることもできる。中でも彼がワールドカップ(W杯)の対ウルグアイ戦(2−0)で見せた、胸トラップから身を返すなり放ったボレーシュートは、彼の能力の結晶だった。というのも、J・ロドリゲスの最大の強みは、“頭脳的シャープさ”だと言われている。ボールに触るか触らないかのうちに次の行動を決める頭の回転の速さ――つまり、どのようなシュートを打つのかという判断が的確かつ速いのだ。

 J・ロドリゲスの真骨頂は、その並外れたパスセンスにある。ボールを持つやドリブルで敵ゴールに向けて突き進み、DFが介入してくる寸前にマークを外した仲間に正確なパスを出す。それが、昨季のリーグアンで何度となく見られた、J・ロドリゲスのプレーの典型的イメージだ。彼がためらったり、不必要にボールをこね回して好機を逸するということは滅多にない。瞬時の判断は電光石火の速さで体に伝えられ、さらにその実行の速さを、卓越した技術力からくる正確さが支えているのだ。

 この真のパサーならではの球離れの良さ、判断の的確さ、空いた仲間を瞬時に見つける眼力は、リーグアンではめったにお目にかかれないものだ。ドリブルで上がっては自分で突破しようとボールをこね、つぶされることの多いジェレミー・メネズやハテム・ベンアルファに見慣れていた専門家たちは、この手の自称ドリブラーに彼の爪の垢を煎じて飲ませたいと言う。昨季のリーグアンで、J・ロドリゲスが12アシストを記録し、イブラヒモビッチを凌いでパサー(得点前の最後のパスを出した選手)ランキング1位に輝いたのは、偶然の賜物ではない。

 J・ロドリゲスが、ドリブルで上がって自らディフェンスラインの裏に抜けることは極めて少ない。その直前に、サイドでフリーになった選手、あるいはボールなしでラインを抜けにいく仲間にパスを出し、パスで相手の守備ラインを抜くのが常なのだ。そのようにして彼は、ファルカオや他のFWに、多くのゴールをプレゼントしてきた。その上で、パスを出したあとのフォローの動きもうまいので、こぼれ球を押し込んでゴールを決めることが多々ある。

 実際、J・ロドリゲスは「小さなときから、僕にはパスセンスがあった。僕が好きなのはそれなんだ」と認める。「ピッチに足を踏み入れるとき、僕は第一に勝つことを考え、第二にパスを出すことを、そして第三にゴールすることを考える」と言う彼は、「パスで仲間に決めさせること――それが僕のプレーであり、実際、それが僕なんだ」とまで明言していた。

トップ下起用で輝いた潜在能力

 しかし、J・ロドリゲスも、モナコに移籍するや直ちに力を発揮したわけではなかった。即戦力として期待され、即座に不動のレギュラーとして起用されたファルカオとは違い、将来の成長を見込まれる若手扱いだったJ・ロドリゲスは、最初の2カ月ほど、チームで定位置を獲得するのにやや苦労することになる。

 モウティーニョが故障中だった第1節のボルドー戦でこそトップ下で先発したが、新聞の評価は最低レベルの4。「ポルトガルではもっとスペースがあった。フランスのDFはよりガツガツ削りに来て、フィジカル的に厳しい」と本人が認めたとおり、違ったサッカーへの順応に時間が必要だったこともある。しかしそれ以上に最初、トップ下のレギュラーの座にはより実績のあるモウティーニョがいたため、彼はその交代要員とみなされていた。

 おかげでモウティーニョが復帰した9月には先発出場が稀になり、交代で出場する場合でさえウイング起用が増加。モナコのクラウディオ・ラニエリ監督に、守備への加勢の少なさを叱咤(しった)されたこともある。彼が本調子を発揮し出すには、自らの2アシストで勝利に貢献した、10月5日の対サンテティエンヌ戦(2−1)を待たねばならなかった。そして、適切なシステムを試行錯誤して探していたラニエリ監督が、モウティーニョをボランチの位置に下げ、トップ下にJ・ロドリゲスを入れる基本システムに定めた11月初頭から、チームも彼自身も上昇気流に乗ることになるのである。

 その日のことを、彼は「確かにあそこからすべてが変わった。すぐに心地よさを感じ始めたよ。でも監督が僕をウイングで必要とするならば、もちろん喜んでそうするけどね」と振り返る。トップ下でも、左右のウイングでも、必要とあらばFWとしてもプレーできる多能性が彼の売りではあったが、ロドリゲスの天性のポジションは、コロンビア代表で受け持つトップ下なのだ。

1/2ページ

著者プロフィール

東京生まれ、湘南育ち、南仏在住。1986年、フェリス女学院大学国文科卒業後、雑誌社でスポーツ専門の取材記者として働き始め、95年にオーストラリア・シドニー支局に赴任。この年から、毎夏はるばるイタリアやイングランドに出向き、オーストラリア仕込みのイタリア語とオージー英語を使って、サッカー選手のインタビューを始める。遠方から欧州サッカーを担当し続けた後、2003年に同社ヨーロッパ通信員となり、文学以外でフランスに興味がなかったもののフランスへ。マルセイユの試合にはもれなく足を運び取材している。

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント