アルジェリアとフランスの際どい関係 両チームが求める“第2のジダン”

木村かや子

課題だった守備は改善されたアルジェリアだったが……

ベルギーから先制点を奪ったアルジェリア。しかし後半は守りきれずに敗れたため、まだ「実は強い」とは言い切れない 【写真:ロイター/アフロ】

 アルジェリア代表は実は強いのか? 彼らのワールドカップ(W杯)初戦、アルジェリア対ベルギーを見る限り、そう言われる日まで、まだ多少の年月が必要なようである。

 アルジェリア代表の前評判は、元来攻撃的志向を持ち、その分弱かったディフェンスをバヒド・ハリルホジッチ監督が強化したおかげで、バランスの取れたチームに変貌したと言われていた。ところがふたを開けてみれば、彼らはディフェンスこそ堅固になったが、攻撃らしい攻撃を展開できない守備的なチームに変貌していた。

 監督は4バックの前にアンカーを入れることで、2枚の防御壁を生み出し、全員で守る組織的守備を徹底させた。実際前半は、人数をかけての『エデン・アザール封じ』を筆頭に、守備はうまく機能していたが、攻撃は鳴かず飛ばず。弱点だった守備の強化に力を入れすぎたせいで長所が消えてしまったのか、前半にPKで奪った1点を守る姿勢を取った結果、後半は押されるままとなって2失点。1−2で敗れてしまった。

ジダンに象徴されるサクセス・ストーリー

 それでも『アルジェリア代表にはすばらしい原石が潜んでいるのではないか?』という推測が存在するのは、フランスの歴史を変えたアルジェリア系の選手がいたからだ。

 ジネディーヌ・ジダンがフランス代表を世界の頂点にいざなったとき、彼はアルジェリア系移民のサクセス・ストーリーの象徴となった。

 ご存知のように、フランスにアルジェリア系移民が多いのは、アルジェリアがかつてフランスの植民地だったためである。アルジェリアで羊飼いをしていたジダンの父は、1953年、土木労働者としてフランスに出稼ぎに行き、アルジェリアの独立で帰国を考えていた最中に、同郷の出であったジダンの母と出会って結婚。ふたりは結局フランスに残り、後に子供をもうけてマルセイユに身を落ち着けることになった。

 ジダンと仲間たちがもたらしたW杯優勝(98年)という快挙の後、現代表のエースストライカー・カリム・ベンゼマ(レアル・マドリー)、マンチェスター・シティとともにプレミアリーグ優勝を遂げたサミル・ナスリなど、やはりアルジェリアに源を持つ選手が天才肌の選手として台頭。仏サッカー界におけるアルジェリア系移民の評判を強固なものにした。

 しかし全体的に見れば、その数は決して多いわけではない。

 実際、大失態に終わった2010年W杯のあと、お茶の間レベルでは「アルジェリア系がひとりもいないからだめだったんだ」という声も聞かれていた。当時のフランス代表は、陰で『オールブラックス』などと言われるほど、移民系フランス人の多いチームだったが、ベンゼマ、ナスリが招集されなかったため、アルジェリア系の選手は皆無だったのだ。現ユース代表レベルを見ても、北アフリカに当たるアルジェリアに源を持つ選手は、中央アフリカ系の選手に比べて数が極めて少ない。

“神童”と呼ばれた選手たちはフランス代表を選んだ

 また、明記しておかなければならないことがひとつある。

“アルジェリア人”と一絡げに言われるが、上記の3人はいわゆるアラブ人ではなく、そろってカビリー、あるいはカビリアと呼ばれる同国最北部の地域に源を持つベルベル人の血筋だということだ。元を正せば東ヨーロッパから渡って来たといわれるベルベル人は、見た目にも肌が褐色のアラブ人たちと違い、一見して白系フランス人やスペイン人などと見分けがつかない肌の色を持つ。

 7世紀にアラブの侵略を受ける前から北アフリカに住んでいたのがベルベル人たちで、彼らはアラビア語と異なる独自の文字と言葉を持ち、かつてはローマ文化に近い独自の文化を誇っていた。フランスからの独立後、アラブ化政策を強めようとした政府が、文化の独立性を訴えるベルベル人のデモを鎮圧しようとし100人を超える死者が出たこともある。

 カビリア地方には元々出稼ぎの伝統があるため、植民地時代には、西洋とアラブの中間者であるベルベル人が、扱いやすい存在として優先的に受け入れられる傾向があった。フランスのアルジェリア系にベルベル人の割合が多いのも、おそらくそのためだろう。

 サッカー面でいえば、アフリカでは、サハラの北とその下ではプレースタイルが180度違うと言われている。セントラル・アフリカの代表が、身体能力、フィジカル面の強さを主な武器としているとしたら、北アフリカのアルジェリア代表は、戦術的で、より繊細なテクニックを駆使した、いわゆる欧州的プレーを信条とする。

 それに加え、フランスとアルジェリアの二重国籍を持つ選手が多いことから、サッカー教育をフランスで受けられるという事実が、彼らの欧州化に小さな一役を買っていた。これは他のフランス植民地のアフリカ人選手にも言えることだが、実のところ、ユース代表の段階までフランスのユニフォームを身につけながら、シニア代表に移る段階で源の国を選ぶ選手が多くいることが、フランスの国立育成機関で問題視されている。
 フランスの税金で育成されておきながら、最後にはフランスの敵となりうるというのは筋が通っていないという言い分だ。

 ル・マン時代の松井大輔のチームメートだったハッサン・イェブダもU−19までフランス代表で、結局アルジェリア代表を選んだ。今回のアルジェリア代表23人のうち、16人がフランス生まれであるという数字がすべてを物語っているだろう。

 とはいえ、現状、実力的にフランス代表に入り込めないものが源の国の代表を選んでいるため、大した問題ではないという声もある。

 確かに、ジダン、ナスリ、ベンゼマら、“神童”と呼ばれた選手たちは皆、フランス代表を選んだ。しかし、例えば元グルノーブルで、ユース時代は“小さな神童”と呼ばれた現アルジェリア代表のソフィアヌ・フェグリは、U−21までフランス代表だったが、シニア代表でアルジェリアを選んだひとりだ。フェグリは、うまく成長すれば、フランス代表に食い込める潜在能力を持つとされていた若手だった。

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著者プロフィール

東京生まれ、湘南育ち、南仏在住。1986年、フェリス女学院大学国文科卒業後、雑誌社でスポーツ専門の取材記者として働き始め、95年にオーストラリア・シドニー支局に赴任。この年から、毎夏はるばるイタリアやイングランドに出向き、オーストラリア仕込みのイタリア語とオージー英語を使って、サッカー選手のインタビューを始める。遠方から欧州サッカーを担当し続けた後、2003年に同社ヨーロッパ通信員となり、文学以外でフランスに興味がなかったもののフランスへ。マルセイユの試合にはもれなく足を運び取材している。

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