ブラジルW杯を目指した中村憲剛の4年間 落選の悔しさとサポーターの応援を胸に

元川悦子

存在感を見せたアジア3次予選

中村は予備登録メンバーに選出された。不測の事態に備え、コンディションを整える 【Getty Images】

 パラグアイ戦で後半から途中出場し、惜しいチャンスに絡みながらも不完全燃焼のまま終わった2010年W杯南アフリカ大会の直後、彼は4年後への意欲を燃やしていた。

「南アで自分がどうだったか? 俺の場合は時間が短過ぎて何とも言えない。相手も疲れていたし、最初から出たらどうだったか分からない。ただ、もうちょっとボールに絡みたかったし、もっと出たかったですね。4年後に対しては新しいモチベーションもあるし、南アの悔しさもあるから目指すのは問題ない。だけど選ぶのは監督。自分が今、やれるのはJリーグしかないので、そこでいろいろ模索しながらやれればいいと思いますね」と中村憲剛は心機一転、再出発を期した。

 アルベルト・ザッケローニ監督の初陣となった10年10月のアルゼンチンと韓国の2連戦で招集され、ブラジルに向けて幸先のいいスタートを切ったと思われた。しかし、11年アジアカップ(カタール)の陣容からは漏れた。田中マルクス闘莉王(名古屋グランパス)を外して吉田麻也(現サウサンプトン/イングランド)を抜てきしたように、新指揮官は新世代へのシフトを推し進めようとしたのだろう。その大会で頂点に立ったことで、ザッケローニ監督はこの時のメンバーを確固たるベースと位置づけるようになる。11年夏(8月10日)の日韓戦(3−0)で清武弘嗣(現ニュルンベルク/ドイツ)が鮮烈なデビューを飾るなど若手の台頭も著しく、30歳を超えた中村憲剛は微妙な状況に追い込まれた。

 そんなベテランMFの重要性が一気に高まったのが、3次予選スタート直前の本田圭佑(現ミラン/イタリア)の右ひざ負傷だった。日本代表は突如としてトップ下の人材難に陥り、ザッケローニ監督は柏木陽介(浦和レッズ)や長谷部誠(現ニュルンベルク/ドイツ)を抜てきするも、チーム全体が機能しなかった。そこで11年10月のタジキスタン戦で中村憲剛を起用したところ、チームは驚くほどの連動性を見せる。それまで不調だった香川真司(現マンチェスター・ユナイテッド/イングランド)も本来の輝きを取り戻し、当時新戦力だったハーフナー・マイク(フィテッセ/オランダ)もゴールを量産。彼自身も貴重な1点を奪った。

「一番の狙いは自分も含めて前の選手が自由にやりやすいようにすること。ハセ(長谷部)とヤットさん(遠藤保仁/ガンバ大阪)もバランスを取ってやってくれているし、前の3人と後ろをつなぐ仕事も1つあった。(香川)真司が中に入りたそうだなという時は外に出て、(長友)佑都(インテル/イタリア)のオーバーラップを引き出すとか、そういう話は試合前からしていた。オカ(岡崎慎司=現マインツ/ドイツ)も前向いたらすぐ相手の裏に入っていく。感覚的にはなんら変わらなかったです」と約1年ぶりの代表戦で目覚ましい存在感を見せつけた。

序列が変わった2つのターニングポイント

 これで中村憲剛の必要性が再認識され、そこから再定着を果たす。12年もチームに帯同。6月から始まったW杯最終予選で本田が復帰してからは出番が減ったものの、岡崎が負傷離脱した12年10月のフランス、ブラジルとの強豪2連戦にも出場した。とりわけブラジル戦では本田とともに前線に並べられ、ゼロトップに近い形で戦った。ザック監督も2人の共存の可能性を模索していたに違いない。

「ミーティングの時に圭佑と俺が並んでいた形だったのでびっくりした。以前に圭佑が前で俺がトップ下というのはありましたけど、うまくお互いを見ながらやる形。中盤を支配したいという意図があったので、自分も顔を出しながらウイング(香川と清武)と4枚でフィニッシュに行きたかった」と彼は指揮官の狙いを明確に理解し、実践しようとした。しかし、ブラジルの抜け目のなさと高度な決定力の前に0−4で完敗。中村自身も前半のみで交代を強いられる。この試合でもう少し前線が機能していたら、彼の運命も変わっていたのかもしれない。後から考えると、冷たい雨の降りしきるブロツワフ(ポーランド)での強豪との一戦が1つのターニングポイントになった可能性は高い。

 それでも中村憲剛は13年に入ってからも代表に呼ばれ続けた。W杯最終予選突破の懸かる3月のヨルダン戦(1−2)直前には「個人的に足りないのはゴール。今の代表の2列目のやつらを見ると、海外に出て得点の意欲がものすごく強くなってる。みんなゴール前のプレーが好きだったのに、今は全然違う。俺も単にボランチとトップ下ができるだけじゃね。自分を変えないと生き残れない」と危機感を示し、いい味を見せていた。だが、苦杯を喫したヨルダン戦、本大会出場が決定した6月のオーストラリア戦(1−1)と続けて出番なしに終わり、コンフェデレーションズカップもイタリア戦(3−4)の後半とメキシコ戦(1−2)の終盤15分弱の出場にとどまった。彼自身、3連敗を喫したチームの救世主になれなかったことを大いに悔やんだことだろう。

「ブラジルで戦うのは本当にきつい。日本も23人全員が同じになればもっと上に行ける。俺も負けないようにしたいし、常に俺が出てもそん色ないと思われるようにしたい。その自信はあります。Jリーグでやってても意識次第。やれることは絶対にある」と彼は残り1年間でのさらなる成長を心に誓った。

 しかし、直後の7月に韓国で行われた東アジアカップが2つ目のターニングポイントになってしまう。中村憲剛や前田遼一(ジュビロ磐田)らベテラン勢は呼ばれず、招集されたことのなかった青山敏弘(サンフレッチェ広島)や山口蛍、柿谷曜一朗(共にセレッソ大阪)らが抜てきされて、非常に良いアピールを見せたのだ。つねに欧州組のいる中で限られた出場時間しか与えられなかった中村や細貝萌(ヘルタ・ベルリン/ドイツ)らより、1つの大会を主力として戦えた青山らは自分の力を見せるという意味で恵まれた状況にあった。この韓国でのインパクトの大きさが結果的にザッケローニ監督の決断につながったと見てもいいのではないか。

真摯な姿勢は日本代表のお手本

 こうして振り返ると、中村憲剛の4年間は岡田ジャパン時代同様、決して順風満帆とは言えなかった。ある時期までは本田のバックアップ役として明確な地位を築いていたのに、香川のトップ下起用をためらっていたザッケローニ監督が徐々に彼を中央で使い始めたことで、立場が微妙に変化した。ボランチでも、青山と山口の台頭に押された格好だ。時間の経過とともに彼を取り巻く環境は刻一刻と変化したが、代表のために身を削って献身的に戦い、自らをレベルアップさせてきた事実は変わらない。スタメンでも控えに回ってもチームを第一に考えて戦うその真摯な姿勢は、日本代表のお手本と言ってもいい。今回の代表落選は本当に残念だが、中村憲剛というフットボーラーにはこれまで以上の敬意を評するべきだろう。

「23人のメンバーにアクシデントがあることを俺は望みたくない。でも過去の例を見ても何が起こるか分からないのがW杯。その時のためにしっかり準備をしておくのは登録メンバーに入った者の義務」とブログに記した中村は1週間の休養を経て、確実にコンディションを高めていくはずだ。どんな時も計算できるこの男なら、“いざ”という時、必ずザックジャパンの力になってくれるに違いない。

2/2ページ

著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント