ソチ敗れても 湯浅、戦い続けて目指す夢=アルペンスキー

高野祐太

五輪を戦ったアルペンスキーの湯浅直樹。夢の実現を目指し、再び戦いの道をスタートさせた 【写真:AP/アフロ】

 ソチ五輪が閉幕して2週間。大舞台を戦った選手たちは、早くも次の戦いに挑んでいる。アルペンスキーの湯浅直樹(スポーツアルペンクラブ)もそのひとり。9日のワールドカップ第10戦(スロベニア・クラニスカゴラ)に出場し、シーズン種目別ランキング25位までの選手などが出場できる最終戦(16日、スイス・レンツェルハイデ)進出を決めた。
 五輪では大会直前の骨折、屈指の難コースに苦しみ途中棄権に。それでも、湯浅が自分を信じて持ち続ける、流儀と夢とは――。

好調で迎えた五輪シーズン…直前のケガ

「どうしても表彰台に立ちたかった。自分を信じて自分で攻めるラインを作って、でもそれが失敗につながってしまった。自分が未熟だということを示していたと思います。でもそうやって自分を信じてスタートしたので、悔いはないです」

 2月に幕を閉じたソチ五輪のアルペンスキー男子回転で58年ぶりのメダルを狙った湯浅直樹(スポーツアルペンクラブ)は、1本目はトップから2秒04遅れの20位。メダルの可能性をわずかながら臨んだ2回目だったが、バランスを崩してポールを通過できず、無念の途中棄権となった。多くの有力選手と同様に、変則的な難しい旗門設定の魔の手につかまってしまった。

 湯浅の五輪出場は8年越し2回目。初めて出場した2006年のトリノ五輪では4位の皆川賢太郎(チームアルビレックス新潟)とともに日本勢50年ぶりの入賞となる7位に入ったが、次の10年バンクーバー五輪は出場を逃した。今回のソチに向けては、極度の腰痛を抱えながら、昨季のワールドカップ(W杯)第3戦で自身初の表彰台となる3位に。今季も第3戦で4位に入り、30歳で迎える五輪に向けて調子を上げていた。しかし、完走することはできなかった。

 それというのも、今年1月中旬のW杯で右足首を骨折。医師には「とても小さな確率で五輪に出られる」と告げられていた。しかし「自分は(間に合うと)120パーセント信じないといけない。五輪には出る」と、すぐに手術に踏み切りリハビリに励んだ。骨折後にLINE(ライン)で会話した札幌琴似中学時代の親友は、「あいつの性格を考えれば、『出場を止める』と言うはずがないし実際そうでした。だからこちらはケガのことには触れず、『応援しているゾ』とだけ伝えました」。
 そして、レースの数日前に練習を再開するという“一発勝負”の五輪。完走はならなかったが、普通なら出場自体が困難なケガを抱えながらの守りに入らないアタックはあっぱれだった。

「トリノ、バンクーバー(五輪)の後は頭がぐちゃぐちゃだったけど、今はメダルに絡むために何が必要かが明確に見える」

 レース後に語ったこの言葉には、4年後の韓国・平昌五輪に挑戦する宣言の意味が含まれており、湯浅の気迫がにじみ出ていた。実は、平昌五輪は09年夏以前からずっと湯浅の念頭にあった集大成の場なのだ。そんな湯浅が考えてきたスキーレーサー像とはどんなものだろうか。

トリノ五輪から8年 “惨敗”からの進化

 湯浅が自らを奮い立たせる“死攻”という言葉がある。“決死の覚悟でポールを攻める”という意味で自作したものであり、危ういほどの一途さと同時に、湯浅のターン技術を真正面から言い表している。最大の特徴は直線的でリスキーなエッジング。湯浅はかつてこう言っていた。
「自分の一番良いところは、非常にエッジングを短く終えられること。一発で決めて一発で終えられる。刀のようにズバンと。リスキーだが、非常に速い滑りができる利点がある」

 8年前のトリノ五輪では、その湯浅らしい“死攻”の滑りで見事に7位に入った。本場の欧米勢が圧倒的に強いアルペンスキーにあって、アジアの端の島国の選手が入賞を果たすことは、とても価値のある結果だった。だが、それから数年後にトリノの滑りを振り返ったとき、湯浅は意外な言葉を口にした。
「実はトリノは惨敗であり、失敗のオリンピックでした。あのときの自分のすべてが否定された瞬間でした」
 1本目の17位から逆転を狙い、自分らしく「死んでもいいから攻めて攻めて攻めまくった」2本目。なぜ、それほど悔いなければならない滑りだったのだろうか。

「攻めてラップ(トップのタイム)を取れれば、この五輪に見切りが付けられると思っていました。ところが驚いたことに、あんなに真っすぐ攻めたにもかかわらず、(2本目の)結果は3番タイムだった。この滑りをベースに次のステップに進むことができるという期待が完全に覆されたんです。優勝したベンヤミン・ライヒ(オーストリア)の滑りを見ていて思ったのは『あんなにゆったり滑っているのに、なんでこんなに速いんだろう』ということでした。僕のような荒々しいタッチはゼロに等しく、繊細なタッチで、ラインも動きも違った。王者の風格がありました」

 湯浅は、どうしてここまで違うのかと考えた。

「(振り返ると)自分の滑りは板の動きがどうしてもラフだし、これだというものがなかった。“とげ”は刺されば痛いけどだいたいは刺さらないし、だいたいは自爆して終わる。(自分の技術は)一発の打ち上げ花火に過ぎなかった。ローギアしか持っていなかったんです。だから、こういうターンがしたいからここでこうして、こう展開して、という細かい分析がまるでできないものだった。それがすごく恥ずかしかった」
 トリノでのその反省は、自分の滑りを見つめ直し、幅を広げるために欠かせないものだった。そして09年には「1速から4速までのギアの感覚を持つ」までになり、続く10―11年シーズンには「新しいギアはある程度のレベルで習得できていて、練習でできることを試合で出せればいい」という段階まできて、世界選手権で日本人として53年ぶりに6位入賞した。

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著者プロフィール

1969年北海道生まれ。業界紙記者などを経てフリーライター。ノンジャンルのテーマに当たっている。スポーツでは陸上競技やテニスなど一般スポーツを中心に取材し、五輪は北京大会から。著書に、『カーリングガールズ―2010年バンクーバーへ、新生チーム青森の第一歩―』(エムジーコーポレーション)、『〈10秒00の壁〉を破れ!陸上男子100m 若きアスリートたちの挑戦(世の中への扉)』(講談社)。

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