北嶋秀朗が歩んだ紆余曲折のサッカー人生 現役生活にピリオドを打ち、指導者の道へ

元川悦子

刺激を受けた日本代表の経験

プレースタイルの変更が、現役生活を伸ばす要因に。北嶋自身も「ものすごく大きかった」と語る 【写真:築田純/アフロスポーツ】

――マッチアップして一番苦しんだ選手は?

 秋田(豊、元鹿島アントラーズなど)さんです。まさに闘魂で、気持ちと体のすべてで抑え込みに来る感じ。『お前、ぶっ殺すからね』ってくらいの殺気を感じるDFでした。00年の第2ステージ最終戦も鹿島に引き分けて優勝を逃し、得点王も取れなかった。鹿島には歯が立たないっていう印象は強かったですね。

――それでも00年には代表入りし、アジアカップ(レバノン)優勝を経験します

 当時は代表で他のFWのプレーを見ながら、自分が成長するために何が必要かを考えていました。「高原(直泰、東京ヴェルディ)みたいに少しドリブルを入れるのも必要だな」とか、「ヤナギさん(柳沢敦、ベガルタ仙台)みたいな抜け出しの部分も必要だな」とか。でも、人の良い部分を取り入れようとし過ぎてしまったせいで翌年くらいからおかしくなった。混乱したんでしょうね。「北嶋は自分のスタイルを見失った」とか批判も受けて、苦しい時期もありました。

 ただ、チャレンジしたことは1つもネガティブには思っていません。常に新しいものを取り入れていきたいというスタンスを取り続けたから、最終的に30歳を過ぎても成長できた。自分のその姿勢は嫌いじゃないですね。

――残念ながら、02年ワールドカップ日韓大会のメンバーに入ることはできませんでした

 あの時は単純に日本代表を応援していました。Jリーグのために頑張ってほしいと思っていたから。それに、代表へ行って(フィリップ・)トルシエ監督から戦術的なことを教えてもらえたのは大きかった。ウエーブの動きとかオーガナイズしながら守備をするとか、今考えるとすごく大事なことをやっていたと思う。ただ、日本人は真面目だから監督が言うことを全部やり過ぎてしまったのかな。自分たちの判断をもっと盛り込められたらよかったんでしょうけどね。

サッカー人生のターニングポイントとなった清水時代

――その頃の柏は西野朗監督の後、(スティーブ・)ぺリマン、池谷監督と指揮官交代が続いてマルコ・アウレリオ監督が就任。若手への世代交代へと一気にシフトしました

 監督どうこうより、自分自身が行き詰まっていましたからね。僕自身はレイソルが嫌いとかではなくて、自分を変えたい、成長するヒントをつかみたいという思いでいっぱいだった。それで清水への移籍を決断したんです。

――03年から3年間過ごした清水時代は?

 森岡隆三さん、斎藤俊秀さん、伊東テル(輝悦、長野パルセイロ)さんたち先輩選手が、自分に大きな影響を与えてくれた。自分がベテランになった時の振る舞いの勉強にもなりましたね。

 俊秀さんは神みたいな人。けがをした時にかけてくれる言葉もそうだけど、いつも全体を見渡していたし、自分のこともしっかりやる人だなという印象はありました。

 隆三さんにはサッカーをたくさん教えてもらいました。「考えるサッカー」に変わるきっかけを作ってくれた人ですね。隆三さんが言っていたことで面白かったのは、3バックの真ん中でやっている時、体の真ん中にボールを置いてドリブルすれば右足と左足の両方からワンステップで蹴り込めるという話。細かいことをちゃんと考えてサッカーをやっているのだと思ったし、そういう感性を持っていたいなという気持ちになりましたよね。

 テルさんはグラウンド上で常に黙々と淡々とやれる。試合に出てようが出てまいが同じようにやれるのは本物のプロ。メンタルの波がゼロというのはすごいなあと感じました。

 レイソルの選手たちは「自分のやるべきことをしっかりやるのが美学」という傾向が強かったけれど、清水の人たちは若手に伝えようとしていた。そこは全然違いました。肩を脱臼したりけがが多くて、プレーの方はうまくいかなかったので、清水のサポーターの方には申し訳なかったけれど、この3年間がサッカー人生の大きなターニングポイントになったのは間違いないです。

けがに悩みプレースタイルを変更

――06年にJ2降格した柏に復帰します

 05年の柏を外から見ていましたが、あのメンバーでJ2に落ちるというのはあり得ないこと。チームが崩壊するような状況に陥り、中心選手が出ていくという悲しい出来事が起きた。「もう1回、柏を前の状態に戻してほしい」という話をいただいた時は、すごくうれしかったし、柏のためにやりたいという思いが湧いてきたんです。06年のレイソルは雰囲気や一体感を大事にしていた。サポーターもあの時から一緒に戦うスタンスに代わりました。一度落ちたから言えることかもしれないけど、あの年にレイソルの道筋ができた気がしますよね。

――北嶋選手自身は06年J2で24試合出場7得点とまずまずの活躍をしましたが、07〜08年は苦しみます

 05年に清水でひざを脱臼して、06年はそれを庇(かば)いながらやったせいで左右の足を順番に手術することになり、07〜08年は本当にきつかった。「北嶋は必要だ」と言われるけれど、その理由はチームをまとめてくれるとか、オフ・ザ・ピッチの部分での期待だった。自分としては葛藤があったし、もうやめた方がいいと真剣に思いました。でも、得点できなければ辞めると覚悟して臨んだ試合で、2年続けてゴールしたんです。07年も08年も1点ずつなのにね。サッカーの神様が続けろって言っているんだと考えて現役続行を決意したんです。

 ただ、このままじゃいけないと思って、08年にユースの練習に参加しました。そこで監督だった吉田達磨(現柏統括部長)さんからフィジカルコンタクトを受けない場所を考えてプレーするようにアドバイスを受けました。それまではわざとDFにマークされに行ってボールをもらう形だったけれど、マークされないポジションで相手の動向を見るという相手主導のプレーに切り替えました。あの変化は自分にとって物すごく大きかったと思います。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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