『浦和レッズの山田暢久』という時代=愛するチームを去る男が流した涙の理由
セレモニーのあいさつは嫌。でも、断れない性格
浦和在籍20年で500試合出場という偉業も達成した 【Getty Images】
だからリーグ最終節、今季ホーム最終戦の後で行われるセレモニーでの個人あいさつも、当初は嫌がっていた。
「あれって、必ずあいさつしなきゃいけないんですかね。したくないなぁ。とりあえず岡野さんや内舘(秀樹)さんがやった時のような(08年シーズン末)、チーム全員がピッチに並んでるところでマイクの前に立って話をするような形は絶対に嫌だ。去年の(田中)達也のようなゴール裏でのあいさつ? あれもマイクを持って話したじゃないですか。ゴール裏で、マイクなしでならいいけど。『どうも、お疲れさまでした』って感じで、ペコッとお辞儀をすればいいんでしょ?」
結局、クラブ側の要請を突っぱねられず、岡野の時と同じようなあいさつをさせられた。人から言われると断れない自らの性格に辟易する。
「ただ言えることは、僕は、浦和レッズが大好きです」
「あいさつは昨夜ちょこっと考えた。寝ながら。ひとりで考えましたよ。そんなの聞かないでよ、恥ずかしい。原稿を用意したというか、大体ですよ。復唱? そんなのしないよ。誰かの前で練習とかもしないです。するわけないでしょ」
本当は紙に書いて熟考しているのだが、真剣に悩んだところを悟られたくない。
「20年、浦和でプレーさせてもらい、ありがとうございました。皆さんとたくさんの歴史を刻めたことが僕の誇りです。レッズでプレーできたことは、(身体を)丈夫に生んでくれた両親のおかげです。そして、いつも支えてくれた家族、友人、チームの仲間、スタッフ、僕に携わってくれた人、そして良い時も悪い時も温かい声援を送ってくれたサポーターのおかげです。本当にありがとうございます。こういう形でチームを去るのは本当に悔しいし、もうこのユニホームを着られないのは本当に寂しいです。これから先のことは本当に今でも悩んでいます。ただ言えることは、僕は、浦和レッズが大好きです。20年間、本当に幸せでした。ありがとうございました」
本当は12月7日の試合後に去就を決めてサポーターの前で発表するつもりだったが、心境に変化があった。頼もしい若者へと成長した長男・樹生くんから、「家族で引っ越してでもいいから(サッカーを)続けてほしい」と言われて心が揺れている。
結局あいさつでは今後の去就を明言しなかったが、それが今の彼の偽らざる本心である。本人を問い詰めたら「年内には決める」と言うが、頑固で一途なくせに優柔不断だから、誰かに背中を押されなかったらいつまでも進路を決めない気もする。
ピッチ上で交わした我が子との『家族の会話』
それでも頭を振り絞って、彼が浦和レッズにいた日々を思い起こしてみる。そう言えば、彼は人前でよく喜んだり怒ったが、泣いたことはほとんどない。唯一、06年シーズンにクラブ史上初のJリーグ制覇を果たした時にキャプテンとして優勝インタビューに答えて涙声になったが、本人は「泣いてない」と言い張っている。
最終戦セレモニーでのあいさつ前にはこんな不安を口にしていた。
「去年、達也が泣きながらあいさつしていたでしょう。でも俺、そういうのを見ると逆に笑っちゃうのよ。どうしよう? 俺の話を聞いてる時にサポーターの方々が涙を流したりしたら、プッって噴き出して途中で笑ってしまうかも。それって失礼だよねぇ」
そう言って強がっていたのに、実際のあいさつでは泣いてしまった。自ら事前に頼んだのに、長男と長女が花束贈呈のために父親の前へ現れたときだ。
山田暢が大切にし、大事に思っているもの。それは家族だ。家族にだけは本心を明かし、ありのままの姿をさらす。反抗期を迎えた長男とのコミュニケーションに苦慮し、かわいらしい長女とはプリキュアの歌を一緒に歌うのが何よりも楽しい。常に自分を尊重してくれる伴侶、そして自分を生んでくれた両親。自分をここまで育ててくれたのは家族があるからこそで、だから彼はこれまで貫いてきたプロサッカー選手の矜持を捨て、埼玉スタジアムのピッチ上で我が子と『家族の会話』を交わした――。
1975年9月10日生まれ、血液型A型、埼玉県さいたま市在住の38歳、「浦和レッズが大好きです!」という2児の父親――。
2013年12月7日。『浦和レッズの山田暢久』は天空の彼方へ飛び立ったが、われわれの頭上には永遠に、彼が記した時代という名の光が輝いている。
<了>