『浦和レッズの山田暢久』という時代=愛するチームを去る男が流した涙の理由

島崎英純

浦和レッズこそ『人生』の投影だった

1994年から在籍する浦和レッズを去ることになった山田暢久 【Getty Images】

 浦和レッズから今季限りでの契約満了を告げられても、山田暢久(以下、ヤマ)に感情の揺らぎはなかった。それは数年前から何らかの覚悟をしていたからかもしれないし、近年のプレーを客観的に自己評価していたからかもしれない。

 だが何よりも、本人がその事実を受け止め切れていないようにも感じられた。1994年から2013年まで20年間在籍した浦和レッズとの別れを、彼は現実としてとらえることがなかなかできなかったようだ。

 朝目覚め、練習場に赴き、ボールを蹴り、帰宅して就寝する。ヤマの人生はこのサイクルの繰り返しだった。世間一般の眼からはプロサッカー選手の生きる場が華やかに映るが、こと彼に関しては当てはまらない。

 派手を好まず、出しゃばることを嫌い、できるだけ喧騒から逃れたい。人付き合いが苦手で口下手な少年は、ボールを追いかけることで存在意義を見いだし、それを生き甲斐にしてきた。そんなヤマにとって浦和レッズは自らの人生を投影できる最高の環境だった。

 J1リーグ501試合出場25得点、J2リーグ39試合出場2得点。ヤマザキナビスコカップは歴代1位の109試合出場6得点。アジアチャンピオンズリーグ14試合出場1得点。天皇杯52試合5得点。20年の歴史の中で築き上げた数字ははたから見ると大記録だが、本人は偉業ととらえていない。ただボールを蹴って生きてきただけ。

【暢】−のびる、のびやか。
【暢気】−性格がのんびりしているさま。物事にとんちゃくしないさま。『暢気な性分』
心配事や苦労がないさま。気楽なさま。『暢気に暮らす』
気が長いさま。落ち着いているさま。『暢気に構える』

 名前の語源を地で生きてきたヤマは、やはり彼らしく、これまで通り自然体で自らの処遇を受け入れようとしていたのかもしれない。

20年のレッズ生活の中で移籍を考えたのは2度

 クラブからの契約満了の知らせは代理人を通じて聞いた。実は事前にクラブフロントから直接連絡を受けたが、彼自ら「代理人を通してください」とお願いした。これまでの19年間は代理人を立てずに自らがクラブと年俸交渉や契約更新の話し合いを行ってきたが、今年からは煩雑な交渉を専門家に任せた。
 それはもしかすると、いつか訪れる『その時』のための準備だったのかもしれないし、煩わしいことはしたくないという、愛すべき彼の陽気な性格が起因したのかもしれない。

 2013年11月14日、木曜日。代理人を通じてクラブからの契約満了の知らせを受けた時の心境は、
「うーん、うん。まあ、そういうこと。うん、うん……」
 言葉を紡げなかった。

 ヤマは在籍20年の中で2度移籍を考えている。

 97年シーズンにホルスト・ケッペル監督に冷遇されてサテライトチーム行きを命じられた時と、99年シーズンに浦和がJ2降格を喫した時だ。前者は約2カ月のサテライト生活を経た末にトップチームに引き上げられて感情を鎮め、後者は先輩・岡野雅行(鳥取)の慰留で翻意した。
「オカさんから電話があって、『皆残るって。ヤマも当然残るよな』って。強制です。強制」

 正直な男だからウソはつかない。
「浦和を出ようと思ったことはあるよ。ある、ある。でも、結局いろいろありながら20年経っちゃったからさ。ここまで来るとね、うん。ここで終える。そう考えることの方が自然だよね。それに今から他のチームのユニホームを着て、どれだけ気持ちを込められるのかが分からない。ここ20年は赤いのしか慣れてないから」

 契約満了を告げられた今、山田暢はそう言ってまた黙り込んだ。

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著者プロフィール

1970年生まれ。東京都出身。2001年7月から06年7月までサッカー専門誌『週刊サッカーダイジェスト』編集部に勤務し、5年間、浦和レッズ担当記者を務めた。06年8月よりフリーライターとして活動。現在は浦和レッズ、日本代表を中心に取材活動を行っている。近著に『浦和再生』(講談社刊)。また、浦和OBの福田正博氏とともにウェブマガジン『浦研プラス』(http://www.targma.jp/urakenplus/)を配信。ほぼ毎日、浦和レッズ関連の情報やチーム分析、動画、選手コラムなどの原稿を更新中。

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