届かなかった1点…阿部勇樹の悔恨=ナビスコ杯に特別な思いも、優勝ならず

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「負けたのは自分の責任」

決定機を逃し、頭を抱える阿部(赤)。「負けたのは自分の責任」と痛恨のミスを悔やんだ 【写真:アフロスポーツ】

 試合終了を告げるホイッスルが鳴り響いた瞬間、柏レイソルの選手たちは特大の歓喜に沸いた。その一方で敗れた浦和レッズの選手たちは、精魂尽き果て、雨で濡れたピッチに横たわっていた。そんな味方を尻目に、阿部勇樹はバックスタンド側のタッチライン際をとぼとぼ歩いていた。その姿は、突きつけられた過酷な現実をいかにして受け止めようか思案しているかのように見えた。

 11月2日に国立競技場で行われたヤマザキナビスコカップ(ナビスコ杯)決勝は、柏が前半アディショナルタイムに工藤壮人がヘディングで決めた1点を守り抜き、浦和に1−0で勝利した。柏は14年ぶり2度目の優勝。2003年以来の同大会制覇を狙った浦和は、02年、04年、11年に続き4回目の準優勝に終わった。

 キャプテンとしてチームをけん引した阿部は、この結果に責任を感じていた。
「最初から難しい試合になることは分かっていました。ただ気をつけなくてはいけない前半の終了間際に点を決められてしまって、最終的にその1点が決勝点になった。チャンスがあったのに追いつくことができなかったし、1点でも取れたら勢いがつくと思ったんですけど、そこで決め切れなかったことで、相手に勇気や集中力を与えてしまったんだと思います。優勝という結果が大事だったので、それを残せなかったのは残念です」

 試合を通じて主導権を握っていたのは浦和だった。しかし、けが人続出で3バックを敷いてきた柏の守備陣を崩せず、逆に集中力が切れた前半終了間際に失点。関口訓充とマルシオ・リシャルデスを投入して猛攻を仕掛けた後半も、チャンスを迎えながら最後のパスやシュートの精度が悪く、柏のゴールをこじ開けられなかった。阿部自身も70分に迎えた決定機を逃している。

「あれが決まっていれば1−1だったし、そこで追いつくチャンスを逃したので、負けたのは自分の責任。だからみんなには申し訳なく思っています」

飛躍のきっかけをつかんだ大会

 阿部にとって、ナビスコ杯は特別な思い入れがあるタイトルだ。05年、当時ジェフユナイテッド市原・千葉に所属していた阿部は、イビチャ・オシム監督指揮のもと、キャプテンとしてこの大会を制した。オシム体制も3年目となり、実りの秋を迎えつつあったチームはリーグ戦で優勝争いを展開しながら、ナビスコ杯でも快進撃を続けた。ガンバ大阪との決勝戦では120分間の戦いでも決着がつかずPK戦にもつれ込んだものの、5人全員が決めた千葉が、クラブ初タイトルを獲得した(前身の古河電工時代を除く)。

 もちろん生え抜きの阿部にとっても、プロになってから初のタイトル。さらにはニューヒーロー賞も受賞した。「いまでもよく覚えています。なかなかタイトルが取れなくて苦しんでいたんですが、ようやくその時に取れた。初めてのタイトルということで特別な思い出として残っています」と、阿部は述懐する。

 さらに翌年、再び同大会で決勝に駒を進めると、今度は鹿島アントラーズを自身のゴールなどで2−0と撃破し、連覇を達成。すでにオシムは日本代表の監督に就任し、クラブを去っていたが、息子のアマル・オシム監督に率いられたチームは再び栄冠を勝ち取った。このタイトルを置き土産に阿部は翌年、浦和へ移籍する。その後は、浦和でACL(アジアチャンピオンズリーグ)を勝ち取り、日本代表としても10年南アフリカW杯でベスト16進出を経験。W杯後にイングランド2部のレスター・シティに移籍し、12年1月に浦和に復帰した。現時点で阿部が手にした優勝カップは国内に限れば、ナビスコ杯のみ。さらには飛躍のきっかけをつかんだこともあって、この大会に懸ける思いは非常に強い。決勝前日も「決勝の舞台に立てるということ、そしてこのタイトルに再び挑戦できることをうれしく思います」と、意気込んでいた。

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