天才と呼ばれ続けた前田智徳への「誤解」=無骨で無口な侍が引退で見せた素顔
無愛想で堅物のイメージも実は涙もろい男
引退試合が行われた10月3日、試合前に山本浩二氏(左)から声を掛けられ、涙を見せる前田智 【写真は共同】
思えば、前田が初めて全国のファンに名前が知られるようになったのも、「涙」のホームランだった。1992年9月13日、東京ドームでの巨人戦。高卒3年目ですでにクリーンアップの一角を任されていた前田は、1対1の同点で迎えた8回に決勝点となる2ラン本塁打を放った。しかし、ベンチに帰った前田はうつむいて涙を流し、試合後のヒーローインタビューも拒否した。
この日の先発は、200勝まであと2勝と迫っていた北別府学。1対0でリードしていた5回、川相昌弘のセンターへのライナー性の打球を前田が後逸してランニング本塁打となり、北別府の勝ち星を消したこと、さらにはその直後の攻撃で、1死二塁のチャンスで打席に立ちながら、タイムリーを打てなかった自分に対する悔し涙だった。
そしてもう1本、筆者の印象に残っている「涙のホームラン」がある。2002年4月5日、広島市民球場での中日戦での一発だ。この日、2年ぶりとなるホームランを放った前田は、当時は試合中に行われていたテレビ中継でのインタビューで、感極まって涙を流した。持病のアキレス腱の状態が悪化し、00年は79試合、01年はわずか27試合の出場と、選手生命すら危ぶまれた時期に出た、復活の本塁打だった。
インタビューで、その日解説者だった達川光男氏が声を掛けた時、前田は「本当に迷惑をかけて、すみません」と声を詰まらせた。99年から広島で監督を務め、00年には、自分を開幕4番に抜擢(ばってき)した達川氏の期待に応えられなかった、懺悔(ざんげ)の涙だった。
「やはり、練習不足です」
セレモニーでのあいさつの話、5年ぶりの守備の話、ファンの声援に対する感謝の話、そしてケガと戦い続けた24年間の話……。その中でも、筆者がもっとも印象に残ったのは、最後の打席の話だった。
最後はファウルフライが理想と言っていた、という質問には「小さい頃から願い事がかなったことがないので。思惑とは裏腹でしたね、最後まで」と、得意の自虐コメント。そしてピッチャーゴロという結果に対しては「まあ、あんなもんでしょう。コツコツと段階を踏んでいかないと、難しいということですよね」と、うなだれた。そして締めくくりとなった言葉が、これだった。
「やはり、練習不足です」
天才と呼ばれ続けた、希代のバットマンの本質を見た気がした。
<了>
(大久保 泰伸/ベースボール・タイムズ)