錦織圭がホームで見せた危うさと繊細さ=苦悩の夏を越えてシーズン終盤へ

内田暁

錦織の背に向けられた大きな期待と熱狂

地元開催の楽天ジャパンオープンで、錦織圭(写真)はさまざまな思いを抱えていたようだ 【写真:ロイター/アフロ】

「さっきも思っていたんです。全然うれしくないなって」

 楽天ジャパンオープン2回戦で、世界24位のフェリシアーノ・ロペス(スペイン)に7−6、6−0の完勝を収めた後の会見でのことである。錦織圭(日清食品)は幾分か苦みのまじった笑みを浮かべ、声にユーモアとも自嘲ともつかぬ響きを乗せた。

「ディフェンディングチャンピオンということもあり、2回戦を勝っても全くうれしくない。良い意味で高く目標を持っていて、もっと上に行かないと喜びも沸いてこないのだと思います。まだまだという意味で……本当に全然うれしくないです」

 前年度優勝者としての責任感とプレッシャー。自らに課した目標の高さ。さらには、一人未踏の地を切り開き、道しるべ無き上を目指す孤独感――錦織の一連の言葉は、彼の胸中を埋め尽くす、あらゆる感情の反射のようであった。

 昨年の楽天ジャパンオープンで優勝し、今年は世界ランキング13位として有明コロシアムに戻ってきた錦織の背には、かつて経験したことのない期待と熱狂が向けられた。例えば今大会が開幕する2日前、女子の東レパンパシフィックオープンが行われるその隅で、錦織がひっそりと練習に打ち込んでいたときのことだ。ファンは目ざとく彼の姿を見つけると、ある者は息を詰めて、またある者は予期せぬ遭遇に興奮を隠せない様子で、いずれも目に感激の光をたたえて錦織の一挙手一投足を凝視した。練習後には、アイドルのコンサートさながらの歓声が四方から飛び、ファンは日本テニス界のスーパースターにサインや握手を求めた。
「日本に居ると、勘違いもしてしまうので……」
 以前、錦織はそう口にしたこともあったが、自身に向けられる他者の濃密な感情を、この感受性の強い青年は全身で感じていたのだろう。

大会前には前回覇者としての葛藤も

 そのような状況は、必然的に今大会初戦のプレーにも影響を及ぼした。
「プレッシャーを感じて、動きが硬くなっていた。頭ではいろいろと整理して試合に入ったけれど、やはり緊張は想像以上にあった」

 敗戦まで2ポイントの窮地から大逆転勝利を収めた初戦の後に、錦織は素直にそう認めた。昨年優勝したという現実を受け入れ自信と変えるのか、あるいは意識的に排除するべきなのか? 大会前には、そのような葛藤にも苦しめられたという。
「この大会の優勝者ということは考えないようにしているけれど、でも、それを受け入れてから臨むようにしようとしたり……頭ではいろいろ考えたのだけれど、なんだかちょっと分からないですね」
 複雑に絡まる感情と思考をひもとこうと苦労した後、ディフェンディングチャンピオンは、照れたような笑いを浮かべてそう白状した。

 もちろんホームで戦うことは、錦織にとって大きなメリットでもある。
「第2セット終盤では、負けたと思いました」
 そう敗北を覚悟した状況から彼に巻き返す力を与えたのは、ファンの声援に他ならない。「観客の応援は、やはり力になります。ファイナルセットなどは、声援の力で集中力が上がったところもある。自分の国のアドバンテージは感じます」という言葉に、嘘はまったく無いだろう。この初戦の第3セット終盤でも、あるいは快勝した2回戦の第2セットでも、錦織は彼らしい躍動感と創造性にあふれるプレーを何度も披露したが、それは1万に迫る観客が作った、コロシアムの一体感の産物でもあったはずだ。

 同時に、常軌を逸したプレッシャーと興奮状態の中で戦うことは、時に彼を、アスリートとしての“安全域”から踏み出させる危うさをもはらんでいた。緊張で硬くなった体を、勝利への執着心で強制的に駆り立ててきたその歪みは、彼の「持病」である腰へと蓄積され、3回戦のニコラス・アルマグロ(スペイン)との対戦でついに隠せぬまでに表層化した。世界17位の強敵と戦ったこの試合でも、錦織は第1セットを接戦の末に失うも、第2セットは2−4の窮地から追い上げ逆転で奪い返した。誰もが初戦のような逆転劇を期待したが、本来なら4−1とリードしていた第1セットを手にし、ストレートで勝利しなければならない状況だったろう。第3セットに入ると錦織の腰は、トレーナーを呼びマッサージを受けざるを得ないまでに悪化していた。それでも何とか食らいつくも、終盤には「打った後に、返ってこられないくらいで、どうしようもなかった」程に痛みが出ていたという。結局、錦織はこの試合に敗れてベスト8で姿を消した。

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著者プロフィール

テニス雑誌『スマッシュ』などのメディアに執筆するフリーライター。2006年頃からグランドスラム等の主要大会の取材を始め、08年デルレイビーチ国際選手権での錦織圭ツアー初優勝にも立ち合う。近著に、錦織圭の幼少期からの足跡を綴ったノンフィクション『錦織圭 リターンゲーム』(学研プラス)や、アスリートの肉体及び精神の動きを神経科学(脳科学)の知見から解説する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。京都在住。

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