sportsnavi

伊藤壇、衰えぬアジア挑戦への情熱
流浪のフットボーラーが語る未知の世界

アジア16カ国でプレーした異色の経歴

アジア16カ国でプレーしてきた伊藤(黄色)。当時はさまざまなアクシデントに見舞われたという
アジア16カ国でプレーしてきた伊藤(黄色)。当時はさまざまなアクシデントに見舞われたという【提供:伊藤壇】

 かつて日の丸を背負った大黒将志が中国・杭州緑城へ赴き、韓国代表フィジカルコーチに池田誠剛氏(現・杭州緑城フィジカルコーチ)、タイ代表GKコーチに元日本代表スタッフだった加藤好男氏(現・チョンブリGKコーチ)がそれぞれ就任するなど、日本人サッカー関係者のアジア進出は加速する一方だ。Jリーグもタイやベトナム、ミャンマーとのパートナーシップを締結するなど、アジアに目を向けつつある。


 こうした時代の流れに先駆けてアジアサッカー界に着目し、16カ国と地域のリーグでプレーした異色のフットボーラーがいる。かつてブランメル仙台(現ベガルタ仙台)に所属した元Jリーガー・伊藤壇(37)だ。


 北海道出身の彼は登別大谷高校から仙台大学を経て、1998年にブランメル仙台入り。テクニックあふれる攻撃的MFとして1年目から活躍し、23試合出場2得点という実績を残した。ところが清水秀彦監督が就任し、チーム名もベガルタに変わった2年目は新戦力の財前宣之らに押し出される格好となり、シーズン末に戦力外通告を受ける。それでも当時の伊藤は「すぐ新天地が見つかるだろう」と楽観視していたという。


「でも全く声がかからず、空白期間が約1年続きました。この頃は合同トライアウトもなくて自分の売り込み方も分からなかった。そんな時、たまたまサッカー雑誌で『シンガポールのクレメンティ・カルサが日本でセレクションを開催する』という情報を見つけた。僕はサッカー選手になるのと同時に海外に住むことが夢でしたから、一石二鳥だと申し込みました」


 2000年12月にセレクションが行われ、伊藤は一発合格。翌01年1月に現地へ渡ってみると、詐欺まがいのアクシデントにいきなり直面することになる。


「到着当日にクラブのポロシャツを着せられ入団会見を行ったので、そういうもんなのかと思ったんです。ところが直後に『うちには同じポジションにオーストラリア代表選手(エニー・タパイ)がいるからキミはいらない』と言われてしまった。日本だったら口約束でも物事は進みますが、一歩海外に出たらそうはいかない。その厳しさを痛感しました」と伊藤はしみじみ語る。

「自分がスペシャリストになれたら」

「アジア10カ国でプレーする」と公言し、多くの苦難に直面しながらも、それを有言実行した
「アジア10カ国でプレーする」と公言し、多くの苦難に直面しながらも、それを有言実行した【提供:伊藤壇】

 ただ、彼はそのまま日本に戻るという決断はしなかった。何とかシンガポールで行き残ろうと同クラブの下部組織のコーチをしながら新天地を探し、ウッドランド・ウェリントンに入ることができた。だが、そこに至る過程でも複数クラブの移籍話がドタキャンになるなど、紆余(うよ)曲折の連続だったようだ。


「ゴンバック・ユナイテッドの時は午前練習前にサインする予定で、僕がパスポートのコピーを忘れていたので、午後にしてもらったら、『契約はなかったことにしてくれ』といきなり通告された。まさに一寸先は闇。それからは契約交渉の際、必ずICレコーダーで相手の話を録音し、一筆書かせるようにしています」と外国特有の苦労を打ち明ける。


 ウッドランドでは01年8月から4カ月間プレー。レベルは日本のJFL程度だったが、5人の外国人枠を巡るサバイバルは熾烈(しれつ)で、伊藤も闘争本能を掻き立てられた。異国生活の楽しみや辛さも味わい、「もう少し海外でプレーしよう」という欲も芽生えた。


「日本にはブラジルや欧州に詳しい人は多いけど、アジアのサッカーに詳しい人は少ないと海外に出る前から思っていました。『自分がスペシャリストになれたら何かが見えてくるかもしれない。もう1〜2カ国行ってみよう』と考え、クレメンティにいたタパイの紹介でオーストラリアへ渡ったんです」


 02年初頭に入ったウエストゲートSCはメルボルンに本拠を置くクラブだ。タパイの家にホームステイしながら3カ月プレー。英語のコミュニケーション力も飛躍的に向上した。オーストラリアは日本やシンガポールと違ってフィジカル色が非常に強い。伊藤はそんなサッカー環境の違いに魅力を感じ、「1年1カ国ずつ回って、アジア10カ国でプレーする」と真剣に考え始める。それを公言し、自らにプレッシャーをかけたのだ。

ベトナムで得た貴重な経験

 そこから10カ国歴訪の本格的なチャレンジが始まる。オーストラリアの後、02年夏にはベトナムへ渡った。


「シンガポールにいたタイ代表選手が、高額な移籍金でベトナムのクラブへ行った話を聞いて興味を覚え、実はウッドランドの後、10万円の現金と1カ月のFIXチケットを持ってホーチミンへ行ったんです。だけど僕には代理人もいないし、何のつてもない。とりあえずストリートサッカーの輪に混ざってボールを蹴っていたら、その中の1人が一番有名なベトナムリーグ(Vリーグ)の強豪・サイゴンポート(現ホーチミンシティ)の練習場へ連れていってくれました。そこで『練習参加させてくれ』と頼み込み、1週間過ごしました。チーム側からは『今季はシーズンも残り少ないし、来季来てくれ』と言われました。でも本気じゃないだろうと思ってオーストラリア行きを優先した。すると3カ月後にサイゴンポートから本物のオファーが来たんです。迷うことなく行きましたね」と、伊藤はドラマティックな展開を説明する。


 当時のベトナムは発展途上国。生活環境は激変したが、サッカー熱はすさまじかった。アウエー戦でタッチライン際をドリブルしていたら、フランスパンやサンダルが飛んで来たり、「ホンダ」「カワサキ」「おしん」と日本を連想させるヤジが浴びせられるなど、異様な熱気を感じたという。


「レベルも年俸も低くなかったし、外国からの売り込みもひっきりなしにあった。Vリーグは将来有望だなと強く感じましたね。02年以降、日本代表歴のある選手など10人以上の元Jリーガーが挑戦してますけど、契約したのは後にも先にも僕一人です」と伊藤は貴重な経験に感謝する。

元川悦子
元川悦子
1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を4月に汐文社から上梓した