眼前とは言えない桐生、山縣の9秒台突入=中国勢台頭で高まる日本短距離界の危機感
肉離れに泣くも、高い潜在能力を秘めた山縣
「僕としてはもっと上を目指していたので、準決勝にも進めなかったのかという悔しさ、なさけなさが大きい。出直したいが、どこまで立ち戻ればいいのか分からない」
ショックの大きさは他人が立ち入ることを拒絶するほどで、伊東部長によると、当夜は不用意に言葉を掛けられないほどだったという。食事もほとんどのどを通らなかった。だが、その落胆ぶりは、強烈なほどに高い意識の裏付けでもある。
昨秋に右太もも裏を肉離れして以降、山縣は自分の走りを見失いかけ、試行錯誤が続いていた。だが、世界選手権の直前になって、かなり状態が良くなっていた。伊東部長が打ち明ける。
「もしかしたら9秒台で走っちゃんじゃないかなというくらいの仕上がりだった」
4月に桐生に敗れ、失った自信を取り戻そうとするころ、山縣は「後半は、どんどん接地時間を短くして行くイメージを考え付いたんです。突き詰めれば空を飛んでしまうんですけどね」と語っている。そのイメージを走りに取り入れられたということなのかどうか。いずれにせよ、何らかの良いきっかけを得たに違いない。
昨年から3度目となった肉離れも、才能の裏返しなのかもしれない。フライ氏は「遺伝的に体を速く連続運動させられる才能を持っている。将来は指導次第で9秒8台まで到達する潜在能力を秘めている。ただ、今はたぐいまれな神経の速い反応に筋肉が追い付いていないのではないか」と分析していた。
ナイン・ポイント・エイト・ランナー。魅力的なフレーズである。
ほろ苦い経験を経て秋のレースへ
さて、世界選手権後に立ち寄ったモスクワのトレチャコフ美術館には、ロシア人画家、イワン・クラムスコイの有名な「見知らぬ女」が展示されていた。黒ずくめで着飾った若い女性が馬車の上から、こちらに視線を向けている。文字通り“上から目線”で、鑑賞者のけがれた心を見透かしているようでドキリとする一枚だ。近寄って確かめてみると、まぶたは重たげで、焦点は微妙にこちらからずれているようにも見える。その眼差しは半眼のようでもあり、何を思っているのか。物憂げなようにも見え、悲しげでもあり、泰然としているようでもある。
美術に不案内な者には正確なところは分からないが、いろいろに解釈できそうな眼差しである。時節柄、妄想してみるならば、「うろたえることなく、内外の雑音に惑わされない心を持つことが、大きな目標を成就するには大切なのよ」と、世界最高峰の駆けっこに懸ける日本の2人の若武者に語りかけているようにも思われた。そんな静かな迫力があった。
<了>