眼前とは言えない桐生、山縣の9秒台突入=中国勢台頭で高まる日本短距離界の危機感

高野祐太

桐生、山縣の現在地は“10秒の壁”より一歩手前

世界選手権の準決勝で10秒00をマークした張(写真)を始め、中国勢が勢力を拡大している 【Getty Images】

 こうした状況をどう読むか。グローバルな視点に立てば、米国やジャマイカなどの黒人選手が席巻してきた男子100メートルという種目で、アジア人が台頭する時代の予兆と見ることができるかもしれない。実際、前述のフライ氏は「決勝にアジア人が2人、3人と残る日が来る可能性は十分にある」と話していた。フライ氏の言葉は、アジア人スプリンターに関心を持って観察していなければ語れないような具体的な内容に言及しており、多少の社交辞令はあるにせよ、評価が“盛り過ぎ”ということはなさそうである。

 他方、桐生と山縣、あるいは日本男子短距離陣の問題に視点を戻してみると、新世代が9秒台とその先の世界の決勝舞台という大目標を掲げて時代を切り開こうとするがゆえに、その大きさに見合った困難が眼前に現れ始めたということかもしれない。“生みの苦しみ”とか“道なき道を行く苦闘”と言い換えてもいい。

 ただ、“10秒の壁”というものとは、少し質が異なるようにも思われる。“10秒の壁”なるものがあるとするならば、もう一歩前進したときに本当の姿を現すのではないか。100メートルで10秒03、200メートルで20秒03までいった末続慎吾(ミズノ)を指導した高野進氏が「意中の女性と同じで、記録は追いかければ追いかけるほど逃げて行く」と語っていたというから、それだけ一筋縄ではいかないもののはずだ。恋焦がれても惑わされないようにするための心構えが必要なのかもしれない。

 桐生と山縣の現在が“10秒の壁”より一歩手前の段階にいると解釈する理由は、一つには、桐生は10秒01を出した今年4月以降、山縣も10秒07を出した昨年8月のロンドン五輪以降、一度も10秒0台を出していないことが挙げられる。桐生の10秒01は、記録が出やすいことで知られる国内の“高速トラック”(エディオンスタジアム広島)で出したものだった。だから、今現在の実力を冷静に判断するなら、もう少し遅いタイムをあてがう必要がある。すると、ロンドン五輪予選の10秒07がベストの山縣とほぼ横一線。その2人の地点から10秒フラットのラインは、すぐ目の前とは言えない。

大舞台でも力を発揮できる走力が必要

 モスクワで出したタイムが、自己ベストとかなり開きがあった点も押さえておかなければならない。要因を一般論で考えると、強豪の外国勢にリズムを崩された(100メートルはそれだけ繊細な種目だ)、会場の雰囲気に飲み込まれた、大舞台で実力を発揮する術を持たなかったなど、経験や100メートルレースの特質に関わる理由が考えられる。また、今大会ではトラックのサーフェスについて、多くの日本人選手から「硬いのに反発が少ない」などと、戸惑いの声が聞かれた。そういう外部環境の変化に付いていける対応力とかタフさを身に付けることは、世界で戦う上での必須条件だ。

 その観点から、国際レースを積極的に走ること、大舞台でも力を発揮できる“地脚”のようなトップスピードを維持できる走力を身に付けることが解決策の一つとなる。海外での経験から学べることは有形無形さまざまあるはずだ。山縣はそれを世界選手権以前から認識していた。少なくとも今年に入ってから海外志向を口にするようになっており、「将来は拠点を海外に置くことも考えている」と語っている。伊東部長も「日本人は国内の整ったトラックに慣れている面がある。海外の選手と同じようにいろんなトラックを経験していろんな引き出しを持ってもらえたら」と問題提起した。

初体験の連続から学んでいる真っ最中の桐生

 では、世界との差がまだあるとしても、桐生と山縣は、9秒台と世界の決勝という目標に迫れるのか迫れないのか。世界選手権では、2人の良いところが見えにくかったが、良さが陰に隠れてしまっただけという側面もあった。桐生と山縣には難題克服の力があって、遠くない将来に一気に突破することだってあり得る。そんな萌芽は、世界選手権でも見られた。

 まず、桐生は17歳の高校3年生という若さで、輝くような初体験の連続から学んでいる真っ最中だということ。初めての世界選手権で完璧に走れなかったことは、むしろ大きく育つための糧になる。事実、失敗を次に生かす能力はかなり備わっているようだ。今季は異例の招待を受けた6月のダイヤモンドリーグ・バーミングガム大会で惨敗したが、世界選手権の100メートル予選後は「バーミンガムでは一点に集中し過ぎたので、今回は視野を広く持つようにした。このレースでだいぶ修正できた」と話した。
 その手応えは、ほかにない経験をいろいろできることがうれしくて仕方がないというような、生き生きとした声色からも染み出してくるようだった。

「最後の1、2歩でゴールを急いでしまった。やっていくうちに、タイムというよりはレース展開として、どんどん(世界に)近付いて行ける思いがあったので、だんだん自分の持ち味を出していければ。世界選手権や五輪では、年齢を重ねるにつれてどんどん強くなろうと思った。緊張というよりは楽しく、これが次につながるんだろうなと思って走りました」
 この実感こそ、桐生の将来性の証明になる。

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著者プロフィール

1969年北海道生まれ。業界紙記者などを経てフリーライター。ノンジャンルのテーマに当たっている。スポーツでは陸上競技やテニスなど一般スポーツを中心に取材し、五輪は北京大会から。著書に、『カーリングガールズ―2010年バンクーバーへ、新生チーム青森の第一歩―』(エムジーコーポレーション)、『〈10秒00の壁〉を破れ!陸上男子100m 若きアスリートたちの挑戦(世の中への扉)』(講談社)。

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