忘れない、斉藤和巳が球界に残した功績=鷹詞〜たかことば〜
新聞で知った、「退団」の事実
復帰がかなわず現役を去る斉藤和巳、しかし球界に残した功績を忘れることはない 【写真は共同】
8月2日、斉藤は一軍首脳陣、選手、スタッフに挨拶するためにヤフオクドームを訪れていた。しかし、柳瀬は「和巳さんの周りに常に人がいたので、僕はあまり話せなかったですね」と苦笑い。ロクに顔を合わせることも出来なかった。
現在のソフトバンクの一軍選手の中で、柳瀬が斉藤に最も近い存在の選手ではなかろうか。06年に入団しセットアッパーとして活躍した時期もあったが、09年に右肘手術、10年には同箇所の「トミー・ジョン手術」を行って長いリハビリ期間を過ごした。翌年には育成選手降格も味わった。
06年といえば、斉藤が大黒柱として君臨していた時代だ。18勝5敗で自身2度目となる沢村賞を獲得。だが、チームはプレーオフで日本ハムに敗れて悲願の優勝を逃した。いまだファンの記憶に残る札幌ドームで泣き崩れたシーンもこの年の出来事だった。この時、斉藤はすでに右肩の異変を感じていた。翌年は登板間隔や球数など“制限付き”でマウンドに上がったが、それが「投手・斉藤和巳」のラストシーズンとなった。
「3年目までは特に接する機会が多いわけでもなく、僕が尊敬の目で和巳さんのことを見ているだけでした。09年に僕が故障してリハビリをしていたある日、『今日、ドームに試合を観に行くぞ』と誘ってくれたんです。ネット裏の部屋で2人きりで観戦。めちゃくちゃ緊張しました(笑)。その後は2人で食事。ホント、その日からですね、僕から積極的に話せるようになったのは」(柳瀬)
隙を見せず、何事にも常に全力だった
柳瀬は手術した当初、しばらく固定されていた右肘を曲げることも伸ばすことも出来ずに「まるで自分の腕じゃない」と絶望的な気持ちになったという。気が滅入りそうになったことは数えきれない。そんな時、必ず目をやるのは斉藤の姿だった。
「和巳さんの何事にも全力で取り組む姿勢からは、一日たりとも無駄にしないという気持ちが常に伝わってきていました」
斉藤といえば、吼える。マウンド上では試合序盤のアウト一つでも吼えて気迫を前面に押し出した。全てにおいて全力。たとえば、無死一、二塁のバント処理なども「絶対に三塁でアウトにする」という勢いでボールに突っ込んでいた。そして、若手がミスを恐れて少しでもスピードを緩めたのを見れば激しく叱責したものだ。
6年間にも及んだリハビリ。「和巳さんは以前よりも優しくなった」との声はよく聞いた。筆者自身も実際に話しかけやすくなったと感じていた。しかし、常に隙はなかったし、弱い姿もまた誰にも見せなかった。
「和巳魂」ここにあり
8月8日、斉藤がいなくなった西戸崎室内練習場を訪ねてみた。数人の若手が「66」のアンダーシャツを着用している。聞けば、斉藤本人からプレゼントされたのだという。
リハビリ組のごく一部は、退団会見前日の7月28日にその事実を知っていた。その日、斉藤は「最後のブルペン」に入った。斉藤学リハビリ担当兼ファーム巡回コーチは「とてつもない気迫あふれるピッチングだった。あの投球なら、試合で投げられる」と語る。そして「感じるものがあった」。だから、投げる斉藤の邪魔にならないよう、下沖勇樹、三浦翔太、坂田将人の3人だけを呼び寄せて、静かにブルペンを見つめさせた。
かつて、斉藤はこのように話していた。
「リハビリ組は怪我を治すことが第一。だけど、この環境だから気づけることもたくさんある。恵まれた環境では気づけないこと、見えないことはたくさんある。今やから色んなことも感じるし、感じてほしい。野球選手としても、ひとりの人間としても感じてほしい。そうすれば、怪我が治った時にスゴく成長した自分に気づく。こういう時間があってよかったなと思える日が来ると思う。そういう日が来るように、今はしんどいけど、毎日コツコツやってほしいなと常に思っています」
球界を代表する大エース斉藤和巳。その栄光と共に、球界に残した功績は、現役選手もファンも決して忘れることはない。
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