高萩は本田らトップ下の牙城を崩せるか?=代表定着へ第一歩を踏み出した“天才”

元川悦子

急造チームにリズムを与えたプレー

中国戦でリズムを作り攻撃をけん引した高萩。挫折の末につかんだ代表への定着を狙う 【写真:FAR EAST PRESS/アフロ】

 開始早々の4分、栗原勇蔵が与えたPKをMFワン・ヨンポ(8番)に決められる苦しい立ち上がりを強いられた21日の東アジアカップ初戦・中国戦。代表初キャップ6人が先発に名を連ねた日本代表は急造チームゆえの出足の悪さを感じさせた。それでも時間の経過とともに攻撃リズムが改善されていく。そのけん引役を担ったのがトップ下に入った高萩洋次郎だった。

 19分には、山口螢のインターセプトから中盤でしっかりとタメを作り、右の工藤壮人へ展開。左から飛び込んできた原口元気の決定的なシュートにつなげた。直後には1トップの柿谷曜一朗へ鋭いスルーパスを送り、タテへの意識の高さを色濃く押し出す。そして34分には高萩の左CKから栗原の同点弾が生まれた。
「前半の途中くらいからしっかり受けて前を向く形が何回か出せました。ワンタッチのコンビネーションだと、いつもやっているメンバーならうまくいくかもしれないけど、今回は違います。ワンテンポ遅らせたり、キープしたりすることで周りが動き出す時間が作れると思って、途中からそれを意識していました。タメができた分、みんなが動き出せたのかな」と試合中のリズムの変化を高萩はこう説明する。

国際試合の感覚を取り戻した中国戦

 後半に入ると、彼のすごみは一段と増す。59分に槙野智章の左クロスから柿谷がヘッドで合わせた2点目は、高萩の素早いスローインが起点となった。2分後の工藤の3点目も、柿谷の素早い動き出しを見逃さなかった彼の正確なスルーパスによってお膳立てされた。74分には左サイドに流れて自らシュートを放つなど、国際Aマッチ初出場とは思えないくらいの存在感を示していた。
「サンフレッチェでやっているときは2列目に自分を含めて2人いるけど、このチームでは自分1人しかいません。なので、そのあたりのバランスを考えながらやる必要がありました。トップ下が1人ということはその分、スペースがあります。そこを使えればもっとチャンスは作れると思っていました。手ごたえは感じました」と本人も自信をつけたようだった。

 チームは終盤、蹴り込んでくる相手を防ぎきれずに3−1から2点差を追いつかれた。高萩自身も代表デビュー戦を白星で飾れず悔しさがいっぱいだった。しかし、長短のパスセンスを駆使したゲームメーク力や創造性の高さといった持ち味はある程度出せたといってもよい。
「代表レベルの国際試合は久しぶりだったんですけど、ミシャ(浦和のミハイロ・ペトロヴィッチ監督)が今の基盤となるプレーの型を築いてくれて、それに加えて森保(一)さんがJリーグやアジアチャンピオンズリーグ(ACL)で戦えるように細かい部分をつけ加えてくれました。そういう積み重ねがあって落ち着いてこの試合に入れましたし、今年ACLを経験したのも大きかったと思います」と彼はこの中国戦でインターナショナルレベルの感覚を確実に取り戻したようだ。

 サンフレッチェ広島ユースに所属した10代の頃から「天才的なファンタジスタ」と称された高萩。回り道をしてきたこの男は、長い時を経て、ようやく日本代表定着への第一歩を踏み出した。

挫折を経験し、再生した早熟の天才

 高萩は本田圭佑(CSKAモスクワ/ロシア)、岡崎慎司(マインツ05/ドイツ)、長友佑都(インテル/イタリア)といった現在のザックジャパンの軸を担う中心選手たちと同じ1986年生まれ。10代後半から20代前半にかけて急速に台頭してきた彼らとは対照的に、彼は福島県いわき市でプレーしていた中学時代から非凡な才能を発揮していた。02年に広島ユース入りした後は、同期の森脇良太、前田俊介(現コンサドーレ札幌)、高柳一誠(現ヴィッセル神戸)らとともに一世を風靡(ふうび)。大熊清(現FC東京テクニカルディレクター)監督率いるユース代表でも、03年のチーム発足後は梶山陽平(現FC東京)らと中盤を形成し、主力として活躍していた。「自分は心底サッカーが好き。何時間練習していても平気」と当時の彼が話したように、真面目でひたむきにコツコツと努力を続ける人間性も評価され、多くの関係者が将来の大きな飛躍に期待を寄せていた。

 ところが、高校2年生だった03年11月にトップ昇格し、広島初の高校生Jリーガーになった頃から、高萩の運命が微妙に狂い始める。05年までの3年間、ほとんどJの試合に出られず、サッカー選手として最も伸びると言われる10代後半の時期を生かし切れなかったのだ。
 この状況を打開するため、彼は06年にJ2の愛媛FCにレンタル移籍。新天地で1年間、コンスタントに試合に出て、再生への糸口をつかんだ。今回の東アジアカップメンバーを見ても、Jユースで育った柿谷、齋藤学、森脇が同じ挫折を経験し、J2へのレンタルによって遠回りしながら何とか復活を果たしている。Jユースに上がれなかった本田や森重真人が高校サッカーを経由してプロ入りし、出場機会を得て大きな飛躍を遂げたことを考えると、Jクラブに所属する早熟の天才をスムーズに伸ばすことがいかに難しいかを改めて痛感させられる。紆余(うよ)曲折はサッカー選手のメンタル強化には必要なことだが、非凡な才能が順調に育たず、頭打ちになるケースが目立つのはやはり問題だ。彼らの例も踏まえ、選手育成に関して考えるべきことは非常に多い。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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