アルゼンチンで異彩を放つニューウェルス=ポゼッションサッカーが成し遂げた功績

決勝目前で敗れたコパ・リベルタドーレス

コパ・リベルタドーレスで決勝進出は逃したものの、ニューウェルスのポゼッションスタイルは称賛に値した 【写真:ロイター/アフロ】

 予期せぬ形で別れの時は訪れた。PK戦の末に敗退が決まったコパ・リベルタドーレス準決勝、アトレチコ・ミネイロ戦の直後。ニューウェルス・オールドボーイズで素晴らしいシーズンを送っただけでなく、アルゼンチンフットボール界におけるプレースタイルのトレンドをも変えたヘラルド・マルティーノ監督は、遠征先のベロ・オリゾンチのホテルにて、ファンの拍手を受けることもなく退団を発表した。

 マルティーノは、1980年代から90年初頭にかけてニューウェルスで活躍した選手であり、テクニックに優れた華麗なミッドフィルダーであった。そして、同じくニューウェルスの英雄であり、2009年からはホームスタジアムにその名前が付けられたマルセロ・ビエルサの影響を色濃く受けた指導者だ。

 12−13シーズンの開幕当初、ニューウェルスはナシオナルB(2部)降格の危機に立たされていた(アルゼンチンでは過去3シーズンにおける獲得勝ち点の少ないクラブが降格する)。だが、ほぼ同じ立場でシーズンをスタートしたインデペンディエンテが降格を避けられなかったのに対し、彼らはピッチのどのエリアからでもグラウンダーのパスを多用してゲームを組み立てた。より良いポジションにいる選手へボールをつないでいくポゼッションスタイルを貫き、少しずつ周囲の評価を勝ち取っていった。

頑なに貫き通したポゼッションスタイル

 マルティーノはパリ・サンジェルマンやマンチェスター・ユナイテッド、レアル・マドリーなどでプレーしたガブリエル・エインセ、エスパニョール、アトレティコ・マドリー、リバプールらを渡り歩いたマキシ・ロドリゲス、メキシコやギリシャで活躍したイグナシオ・スコッコら下部組織出身の選手を呼び戻し、マルセイユやモナコでプレーしたキャプテンのルーカス・ベルナルディ、スペインの数クラブに所属したピボーテ(セントラルMF)のディエゴ・マテオらとともにチームの中心に据えた。

 彼らベテランをベースに、GKのナウエル・グスマンらユース上がりの若手を加えたチームは順調に結果を出し続け、後期リーグ優勝を制するに至った。並行してリベルタドーレスでは、準々決勝でボカ・ジュニアーズをPK戦の末に破り、4強入りを果たしたのである。

 現在のアルゼンチンのフットボール界において、ニューウェルスのようなチームが成功を収めるのは簡単なことではない。大会方式や規定が頻繁に変わり、スタンドでは試合を中断に追い込む暴動事件がたびたび起こるなどピッチ外の状況は混沌(こんとん)を極め、大多数のメディアや指導者たちは良いプレーを構築することより、フィジカルに頼った守備的なスタイルでてっとり早く結果を出すことを優先しているからだ。

 それでもニューウェルスはフィールドプレーヤーとしてもプレーできるほど高い足元の技術を持つ守護神のグスマン、対人守備の強さとテクニックを兼ね備えたサンティアゴ・ベルジーニと経験豊富なエインセのセンターバックコンビ、成長著しいパラグアイ代表右サイドバックのマルコス・カセレスと左のミルトン・カスコ、クリエイティビティーあふれるマキシ・ロドリゲス、そして国内最高のストライカーに急成長したスコッコの決定力といった個々の能力を生かし、マルティーノが求めるポゼッションスタイルを頑なに貫き通した。

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著者プロフィール

アルゼンチン出身。1982年より記者として活動を始め、89年にブエノス・アイレス大学社会科学学部を卒業。99年には、バルセロナ大学でスポーツ社会学の博士号を取得した。著作に“El Negocio Del Futbol(フットボールビジネス)”、“Maradona - Rebelde Con Causa(マラドーナ、理由ある反抗)”、“El Deporte de Informar(情報伝達としてのスポーツ)”がある。ワールドカップは86年のメキシコ大会を皮切りに、以後すべての大会を取材。現在は、フリーのジャーナリストとして『スポーツナビ』のほか、独誌『キッカー』、アルゼンチン紙『ジョルナーダ』、デンマークのサッカー専門誌『ティップスブラーデット』、スウェーデン紙『アフトンブラーデット』、マドリーDPA(ドイツ通信社)、日本の『ワールドサッカーダイジェスト』などに寄稿

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