英国全土が愛する存在になったマレー=77年ぶりウィンブルドン王者の誕生
77年の呪縛 ヘンマンから引き継いだ母国の期待
ウィンブルドンで、77年ぶりの英国人優勝を飾ったマレー 【写真:アフロ】
2013年7月7日――。
母国から悲願のウィンブルドンチャンピオンが生まれたこの日は、英国人の記憶に長く留まり、歴史に永遠に刻まれることだろう。世界2位のアンディ・マレーが、世界1位のノバック・ジョコビッチ(セルビア)を6−4、7−5、6−4で破り抱いた栄冠のトロフィー。それは英国人男性として、実に77年ぶりの快挙であった。
英国という国は半世紀以上の長きにわたり、テニス界において矛盾した存在だった。近代スポーツの母国を自負し、“テニスの聖地”を持つことを誇りに思いながらも、欧州大陸の北に浮かぶ島国からは、どうしてもテニスのトップ選手が生まれなかった。ウィンブルドン優勝者として、チャンピオンプレートに最後に名を刻んだ英国人は、1936年のフレッド・ペリー。今ではファッションブランドとしてもその名を知られる、伝説的な選手である。
英国人テニス選手に、宿命的にのしかかる呪縛を解くのに最も近づいたのは、90年代から2000年代にかけて活躍したティム・ヘンマンだ。クラシカルなサーブ&ボレーを身上とする紳士然としたテニスエリートは、ウィンブルドンの芝の上で最も輝いた。9年連続で4回戦以上に勝ち進み、準決勝にも4度勝ち進んでいる。だがどうしても、ベスト4の壁は崩せずにいた。
そのヘンマンに衰えが見え、彼に宿願成就を願うのは難しいと人々が感じ始めたころ、奇跡的に若き希望の星が出現する。クルクルとカールした赤い巻き毛に、神経質そうな表情と所作。英国北部、スコットランド出身のこのシャイな少年が、17歳で全米オープンジュニアチャンピオンになったのだ。この瞬間からアンドリュー(アンディ)・マレーは、ヘンマンが背負ってきた十字架を引き継ぐことを余儀なくされた。
事件の生存者として 覗かせたマレーの素顔
ユニオンジャック、スコットランド旗が揺れる会場 【Getty Images】
そのようなマレーの出自が、とある“事件”を引き起こす。06年の、サッカーワールドカップ開幕前のことである。「どの国を応援するか?」と聞かれたマレーが「イングランド以外ならどこでも」と言ったと報じられたため、マレーを糾弾する声が国内で噴出したのだ。事の真相は、ヘンマンとマレーがサッカー談義をする中で、マレーが冗談で言った言葉が曲解し伝えられただけだったという。だが、一度貼られた「不遜」「イングランド嫌い」のレッテルは簡単に剥がされることはなく、またマレー自身も、公の場で釈明することを望まなかったようだ。彼には、自らを“スコットランド人”と定義しておきたい理由があった。スコットランドの名を背負い、生まれ故郷に希望を与えたいと願っていたのだ。
その願いの原点は、平穏な小さな街を襲った悲劇に根ざしている。1996年3月、マレーが通っていた小学校に拳銃を持った男が現れ、生徒16人と教員1人を撃ち殺し、最後には自身を撃って絶命したのだ。犯人が凶行に及んだ教室の隣は、マレーのいた部屋だったという……。
マレーはつい数年まで、この事件について公の場で話すことを拒んできた。だが最近では自ら事件に触れ、母校に足を運び、街の人々がいかに惨劇から立ち直ってきたかを知ろうと努めている。そのようなマレーの姿を目にした英国の人々も、無表情とシニカルな言葉に隠された、彼の繊細で温かい素顔を知ることになる。
昨年のウィンブルドン決勝で敗れた姿も印象的だ。準優勝者スピーチでマレーは「ウィンブルドンでプレーすることはプレッシャーだろうと言われるけれど、それは全く違う。皆の応援はいつだって僕を助けてくれるんだ」とファンに謝意を述べ、大粒の涙をこぼした。その涙に人々は、彼の母国への想いをみる。イングランドもスコットランドも、もはや関係ない。マレーは、英国全土が愛する存在となっていた。
今大会のマレーに向けられた期待の大きさは、当日券を求める列の長さにも反映されていた。「当日券」と言っても並ぶのは試合の2日前からであり、センターコートのチケットが買えるわけでもない。手にできるのは会場への入場券だけなのだが、それでも人々は少しでも近い位置で、歴史的瞬間を迎えようとしていた。センターコートに入れないファンは、第2および第3コート内のスクリーンで、試合の中継映像を見る。会場内の巨大スクリーンを望める小高い丘にも、1万人に迫るファンが立錐(りっすい)の余地もない程にひしめき合った。それらファンの中には、ユニオンジャックを手にしている人がいれば、スコットランドの旗を振る者もいる。だが全てのファンに共通しているのは、声の限りマレーを応援していることだ。