クルム伊達、全仏完敗も笑顔の理由=結婚で心境に変化も、変わらぬ勝負師の姿
“普通の幸せ”を求め引退したはずが……
全仏オープンの女子シングルスで1回戦敗退となったクルム伊達。しかし試合後の会見では柔らかな表情を見せた 【Getty Images】
「今のあなたは、楽しみのためにテニスをするのか? それとも今もまだ、勝利への情熱があるのか?」
その問いはもしかしたら、完敗後の会見にもかかわらず、クルム伊達の表情が柔らかなことから生まれたのかもしれない。質問を受けた者は、笑顔を織り交ぜながら答えた。
「まだ情熱はあります。でも今は何より、テニスが楽しい。90年代にプレーしていた時は、常にストレスしか感じられず、何もかもが楽しくなかった。東京の空港に向かう時はいつも、『パスポートが期限切れになっていないかな……』なんて思っていた。そうすれば、海外に行く必要がなくなるから。もちろん、期限が切れていないことくらい分かっている。でも、そう考えずにはいられなかった。飛行機の中で泣いたこともあった」
インターネットの普及も、世界的な日本食ブームも起こる前の時代である。20代の伊達公子が、深い孤独の内で涙する姿が見えた気がした。
そんな孤独から抜け出すため、彼女は25歳にしてラケットを置く決断を下す。テニスを辞め、普通の生活を楽しみ、ドイツ人のミハエル・クルム氏と結婚もした。平穏を追い求めた末に手にした、“普通の幸せ”だったはずである。だがこの結婚が、彼女を再び“普通ではない世界”に引き戻したのだから、運命とは不思議だ。
「結婚してから、自分を変えようと思った。夫が私を変え、私も夫を変え、そして人生は変わった。今はテニスを楽しめていて、だからこそパッションもある」
復帰後のクルム伊達を支えた夫の存在
3年ぶりの勝利は成らなかった。だが敗戦後にまとう空気は、過去2年とは大きく異なっている。敗れた悔しさが無いわけでは、決してないだろう。だがそれでも時折笑顔を見せるのは、今季のクレーシーズンの位置づけが、彼女の中で明確だからだ。
ケガなく、5月の欧州を乗り切ること――それがクルム伊達の最大の目標だった。
彼女がそのように考える根拠は、ケガにケガを重ねた昨年の反省にある。昨年のこの時期に慣れないクレーの試合で負傷し、その痛みをごまかしプレーし続けた代償は、半年以上にも及ぶ「勝ち星なし」という苦境となってクルム伊達を苦しみ続けたのだった。
実は今年もクルム伊達は、腰に痛みを抱えたまま5月の赤土の季節を迎えている。だが今年の彼女は、昨年と同じ轍は踏まなかった。このシーズンにシングルスでの出場は取りやめ、ダブルスのみで調整をして全仏に挑んだのだ。言ってみれば、体調管理と、試合で得られるランキングポイントを天秤にかけた上で、前者を選んだのである。
このように、融通を利かせて「クレーを捨てる」という道を選べたのも、あるいはクルム伊達が、夫のミハエル・クルム氏から受けた影響かもしれない。
「私は何事も、事前にきっちり決めて準備しないと気が済まない性格。でも夫はいつも私に『もっとリラックスしなさい』と言っていた。全てが予定通りでなくても良い、時には試合前にワインを飲んだって良い……そんな風に夫は言ってくれた」
かけがえのない人生の伴侶が、張り詰めすぎた完璧主義者の心の弦を、少しばかり緩めてくれた。そうして生まれた“遊び”部分を、今回は全仏を含めたクレーシーズンに充てたのだろう。