柏原竜二、苦難のルーキーイヤーに得た手応え=2時間5分台「僕らが出さないと」

折山淑美

大学卒業で解放感「あぁ、もういいんだ」

東洋大から富士通に入社した柏原の社会人1年目は、相次ぐケガで決して順風満帆ではなかった 【スポーツナビ】

 東洋大時代に箱根駅伝など学生長距離界で活躍した柏原竜二。昨年4月に実業団チームの強豪・富士通に入社し、社会人ルーキーとして7月に出場したレースでは、5000メートルで自己記録を更新。順風満帆にスタートしたように見えたルーキーイヤーだったが、シーズンを通してみれば苦しんだ1年だった。

「注目されることはあまり気にしていなかったけど、練習にしても試合にしても自分の思うようなことはできなかったですね。(入社前の昨年)1月から3月にかけてケガをして出遅れ、春先のシーズンは1本のレースに合わせるだけの能力しか使えなかった。夏に走り込めて、9月の全日本実業団の1万メートルで自己記録に迫って『ちょっと良い結果だ』と思ったら、その瞬間にまたケガをする。ただ、悪かったことは多かったけど、大学までの自分だったらあそこで一気にガタッときて1年を棒に振ってたとも思います。今年に入ってから立て直すことができているので、そこは成長した部分かなと思いますね」

 昨年の箱根駅伝が終わってからは、ジョギングはできるがスピードを上げると膝や足首が痛くなっていた。「ホッとするとどこかが痛くなったり、体調が悪くなるというか。4年間が終わって『あぁ、もういいんだ』と解放されて、緊張の糸がほぐれたというのもあったかもしれない」と柏原は言う。1年の時の快走以来、期待され続けた4年間。精神的にも肉体的にもきつかったのだろう。

柏原を救った藤田敦史の一言

「できれば僕も、ニューイヤー駅伝でエース区間を走って勝負したいというのはありました。どうせたたきのめされるだろうけど、挑戦してみたいという気持ちはあっても、そこでケガをしたりとか……。でも振り返れば、自分の調整能力の無さとか練習不足はあったけど、それも良い経験だったと思います」

 やらなくてはいけないのに、それをできないという精神的な苦しさはあった。だがそんな時に、福島の先輩でもあるチームメートの藤田敦史に声を掛けてもらい、気持ちが吹っ切れたという。「藤田さんから『お前には(ニューイヤー駅伝で)エース区間を走ってもらいたいというのが本音だけど、そこはもう間に合わない。だからつなぎの区間を全力で走れる準備をしておいてくれればいい』と言われて。それで結構助かりましたね。チームも監督も、エース区間で走ってほしいという気持ちだというのは分かっていたから。そこでちょっと痛みがあっても、『やらなきゃ』とか『早く復帰しなきゃ』という気持ちになったら後手後手に回ったと思うんです。でも藤田さんにそう言われて、ギリギリまで休もうと思った。それで何とか間に合った感じですね」

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著者プロフィール

1953年1月26日長野県生まれ。神奈川大学工学部卒業後、『週刊プレイボーイ』『月刊プレイボーイ』『Number』『Sportiva』ほかで活躍中の「アマチュアスポーツ」専門ライター。著書『誰よりも遠くへ―原田雅彦と男達の熱き闘い―』(集英社)『高橋尚子 金メダルへの絆』(構成/日本文芸社)『船木和喜をK点まで運んだ3つの風』(学習研究社)『眠らないウサギ―井上康生の柔道一直線!』(創美社)『末続慎吾×高野進--栄光への助走 日本人でも世界と戦える! 』(集英社)『泳げ!北島ッ 金メダルまでの軌跡』(太田出版)ほか多数。

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