瀬古利彦が見つめたラストラン=エスビー食品陸上部、栄光と苦悩の歴史
エスビー食品の顔として活躍した瀬古。写真は、83年の東京マラソンで優勝した時のもの 【写真は共同】
「まったく何やってんだか。最後くらい、ちゃんと走れって」
その目は少しだけうるんでいた。
画期的な取り組みがマラソンでの勝利へ
瀬古は当時の部の雰囲気を語ってくれた。
「駅伝に出ることも必要な7人が揃ったからという軽い雰囲気で決まりました。一番大切なのは個人種目であり、中でもマラソンで結果を出すことが最大の目標。駅伝で負けてもマラソンで勝てばいいという気持ちでした」
マラソンへの取り組み方も画期的だった。海外合宿が珍しかった当時、エスビー食品は、毎年、ニュージーランドで長期の合宿を行い、ヒルトレーニングを行った。起伏の激しいコースの中、ダッシュやジョグを繰り返すペース変化に富んだ練習で、勝負どころの急激なペースアップに対応できる力を養ったのだ。また83年には中村の指導を求めて来日したダグラス・ワキウリを受け入れた。ワキウリは日本に拠点を置いた最初のケニア人選手となり、88年のソウル五輪では銀メダルを獲得している。その存在は他の日本人選手にも大きな刺激となった。
瀬古のマラソン実績は15戦10勝。84年には彼を含め男女4名の選手がロサンゼルス五輪に出場した。エスビー食品の新たなことに挑戦する革新性が、瀬古の驚異的な勝率とチームの黄金時代を作り上げたことは間違いない。