瀬古利彦が見つめたラストラン=エスビー食品陸上部、栄光と苦悩の歴史

加藤康博

エスビー食品の顔として活躍した瀬古。写真は、83年の東京マラソンで優勝した時のもの 【写真は共同】

 3月17日、山口県維新百年記念公園陸上競技場で全日本実業団ハーフマラソンが行われた。優勝を果たしたのは丸山文裕(旭化成)。しかし、そのフィニッシュ後も瀬古利彦はトラックを見つめていた。視線の先には足を引きずりながら走る上野裕一郎(エスビー食品)の姿があった。丸山から遅れること約3分、足を痛めながらも上野はなんとか初挑戦のハーフマラソンを走り終える。その瞬間、エスビー食品陸上部は歴史に幕を下ろした。瀬古は上野のフィニッシュ後も表情を変えることなくその背中をじっと見つめていたが、数十秒後、苦笑いを浮かべ、ようやく口を開いた。
「まったく何やってんだか。最後くらい、ちゃんと走れって」
 その目は少しだけうるんでいた。

画期的な取り組みがマラソンでの勝利へ

 エスビー食品陸上部の歴史は長い。1954年の創部当初から短距離やフィールド種目に多くの有力選手を擁し、強豪として名を馳せていたが、途中で一度休部も経験している。再始動は80年。早大で瀬古を指導していた中村清(故人)が監督に就任し、瀬古とともに入部。日体大から中村孝生、新宅雅也も加わり、3名の部員で長距離に特化した歩みを始めた。84年からは駅伝にも参戦し、いきなり全日本実業団駅伝で4連覇を果たすなどその力は飛び抜けていたが、チームの一番の目的はマラソンでの勝利。それがエスビー食品の最大の特徴だった。
 瀬古は当時の部の雰囲気を語ってくれた。
「駅伝に出ることも必要な7人が揃ったからという軽い雰囲気で決まりました。一番大切なのは個人種目であり、中でもマラソンで結果を出すことが最大の目標。駅伝で負けてもマラソンで勝てばいいという気持ちでした」

 マラソンへの取り組み方も画期的だった。海外合宿が珍しかった当時、エスビー食品は、毎年、ニュージーランドで長期の合宿を行い、ヒルトレーニングを行った。起伏の激しいコースの中、ダッシュやジョグを繰り返すペース変化に富んだ練習で、勝負どころの急激なペースアップに対応できる力を養ったのだ。また83年には中村の指導を求めて来日したダグラス・ワキウリを受け入れた。ワキウリは日本に拠点を置いた最初のケニア人選手となり、88年のソウル五輪では銀メダルを獲得している。その存在は他の日本人選手にも大きな刺激となった。

 瀬古のマラソン実績は15戦10勝。84年には彼を含め男女4名の選手がロサンゼルス五輪に出場した。エスビー食品の新たなことに挑戦する革新性が、瀬古の驚異的な勝率とチームの黄金時代を作り上げたことは間違いない。

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著者プロフィール

スポーツライター。「スポーツの周辺にある物事や人」までを執筆対象としている。コピーライターとして広告作成やブランディングも手がける。著書に『消えたダービーマッチ』(コスミック出版)

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