名前は変われど「清商魂」は永遠に=大瀧雅良監督と偉大なるOBたちの思い

元川悦子

清水桜が丘高校として新たな一歩を踏み出す

清商を全国有数の強豪高に育て上げた大瀧監督。多くの日本代表選手を輩出した 【写真:アフロ】

 2013年3月31日、日本の高校サッカー界をリードしてきた清水商業高校(以下、清商)の長い歴史に一つの区切りが訪れる。高校サッカー選手権3回、高校総体4回、高円宮杯全日本ユース選手権6回と全国制覇13回を誇り、名波浩、平野孝、川口能活、小野伸二という4人の選手をワールドカップの舞台へ送り出した名門校が同じ市内の庵原高校と合併。4月1日から清水桜が丘高校として新たな一歩を踏み出すのである。

 清商サッカー部初の全国大会出場となった69年夏の高校総体でキャプテンを務め、74年に母校に赴任してから足掛け39年間もサッカー部を指揮してきた名将・大瀧雅良監督にとってもこの出来事は寂しい限りだろう。しかし、これまで守り続けたものを簡単に消滅させるわけにはいかない。「たいやきも黄金まんじゅうも中身はあんこ。それと一緒で、名前は変わっても中身は同じだということを今後も示していきたいですね」と指揮官は新高校での清商魂継承に意欲を燃やしている。

「僕がやってきたのは、今の一瞬を一生懸命生き、努力することの大事さを子供たちに教えてきたこと。それだけですね。最近の子供たちは『先があるから今はいいや』とすぐに物事を流そうとする傾向が強い。でも、一生懸命の積み重ねがあってようやく未来が開ける。スポーツはまさにその象徴なんです。40年近い指導者生活の中では、選手を怒鳴ったり叱ったりしたことも数えきれないほどありましたけど、僕は必死に頑張ることの素晴らしさを伝えたかった。高いレベルを目指したいと思うなら、それなりの努力は必要ですからね。日本代表になった名波や能活たちは自然とそういうことに気づき、自分を律してサッカーに取り組んでくれました。高校時代はたった3年ですけど、その後の人生に及ぼす影響は物すごく大きい。僕はそう思いますね」と指揮官は過ぎ去った時間にしみじみと思いをはせた……。

価値観を覆した風間八宏との出会い

 大瀧監督が指導者のキャリアをスタートさせたころ、静岡の高校サッカーは故・長池実監督率いる藤枝東、勝沢要監督率いる清水東、井田勝通監督率いる静岡学園がリードしていた。若かりし日の大瀧監督はマネジャーを清水東に行かせて練習メニューを学んだり、長池監督の指導理論に耳を傾けるなど、とにかくどん欲だった。当時は清水の才能ある少年たちを育てる清水FC(2008年に清水エスパルスの下部組織に吸収される形で消滅)の活動も活発で、清商にもいい人材が送りこまれていたのだが、経験不足ゆえに選手の良さを思うように引き出せない。自分自身のふがいなさを痛感する日々だったという。

 そんな大瀧監督にとって最初の転機となったのが、風間八宏との出会いだった。清商3年の時に79年ワールドユースに出場し、筑波大時代には日本代表入りした名選手を手元に預かってみて、自らの価値観が根底から覆されたと指揮官は言う。

「スポーツでは間合いや呼吸が大事。遠藤(保仁)のコロコロPKもそうですけど、絶妙なタイミングを読める天性の才能というのは確かにある。それを持つ八宏を見て、自分の力の限界を思い知らされました。子供たちの方がずっと才能もセンスもあるんだから、僕が上から目線で教えようとするより、彼らの持てる力を際限なく伸ばすことを考えた方がいい。そのための方法を勉強しようと考え直したんです」

 大瀧監督は選手たちの特徴を見極め、長所を伸ばす指導へと転換。江尻篤彦キャプテン率いる85年度のチームを高校選手権初制覇へと導くことに成功する。指揮官は「江尻たちの選手権優勝が人生2つ目の転機」と言い切るが、江尻自身も「僕にとってもあの優勝は人生の大きな糧になっています」と強調する。

「僕らの代は高校総体静岡県予選1回戦で負けるような弱小チームだった。大瀧先生にも『お前らはもう練習に来なくていい』と言われました。でも選手権を目指さないまま引退するなんて考えられない。先生の丸坊主姿を見て、キャプテンとしてできることは何だろうと毎日真剣に考え、数日後に3年生全員と話し合い『もう1回やらせてほしい』とお願いに行ったんです。先生はなかなか首を縦に振ってはくれませんでしたけど、何とか練習に戻ることができた。そこからの僕らは目の色が変わったように積極的になり、全員がチームのために働こうと自ら役割を探し始めた。あれだけ高度な一体感を感じたのは、その後の人生を考えてみてもないですね」と述懐する。このエピソードは大瀧監督の「選手たちに考えさせる指導」が大輪の花を咲かせた象徴的な事例と言っていい。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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