再び動き出した男子テニス界の潮流 闘いの場に復帰した、元世界1位ナダル

内田暁

222日ぶりに戻った、ツアーの“現在”

222日ぶりにツアーの舞台へ戻ったナダル。ライバルたちとの、激闘の日々が再び始まる 【写真:AP/アフロ】

 222日ぶりに戻ってきた男子テニス界は、果たして彼の目に以前と違う景色に写ったろうか……? あるいは外界などには目もくれず、自分が進むべき道のみをひたすら凝視していたのかもしれない。元世界ランキング1位にして、11のグランドスラムタイトルを誇るラファエル・ナダル(スペイン)が、2月4日から10日にかけてチリで開催されたVTRオープンにて、昨年6月のウィンブルドン以来となる公式戦を戦った。
 
 ナダルが「キャリアの中で、最も長い休養」を取らざるを得なくなったのは、長年に渡り彼を苦しめてきた膝の負傷のためだった。昨年のウィンブルドン2回戦敗退後、ヒザの不調を理由に五輪、さらには全米オープンまで欠場。炎症だと思われた痛みの原因が「膝蓋腱の裂傷」であることが判明するも、手術を受けずに治療する道を選んだため、休養期間はさらに伸びることとなった。結局は年内の復帰はならず、今年の全豪も「膝は回復したが、ウィルス性胃炎にかかったため十分な準備ができなかった」ことを理由に参戦を断念。そうして多くのファンや関係者をやきもきさせた7カ月半の月日を経て、ついに先週、ナダルはコートに立ったのである。
 
 その7カ月半の間、男子テニス界はいくつかの変容を遂げてきた。その一つは、ナダルのランキングが5位に落ちたことだ。2011年4月以降、世界ランキングの上位4枠は常に、ロジャー・フェデラー(スイス)、ノバック・ジョコビッチ(セルビア)、アンディ・マレー(スコットランド)にナダルを加えた、いわゆる“ビッグ4”が独占してきた。もちろん、この度のナダルの脱落は負傷が理由だったが、それは逆説的に、他の3選手がほぼケガとも無縁で男子テニス界に君臨してきたことを示している。
 さらに大きいのが、英国の希望、マレーの台頭だ。マレーは長らく、上位4選手の中で唯一、4大大会タイトルに無縁な選手であった。そのため、「実質的にはビッグ4ではなく“ビッグ3+α”だ」と揶揄(やゆ)する声もあったが、昨年は地元開催の五輪、そしてついに全米オープンをも制し、ジョコビッチやフェデラーらのライバルとして正式に迎えられた感が強い。現に先の全豪でも、マレーは準決勝でフェデラーを破り決勝進出。そのマレーを破り優勝したのはジョコビッチであり、ジョコビッチとマレーによるグランドスラム決勝戦は、昨年の全米に続く2大会連続のことだ。ともに25歳の二人が頂上決戦を重ねるこの事実は、かつての“フェデラー、ナダル”時代が、緩やかながらも移り変わりつつある世相を反映する。
 ナダルがコートに戻ってきたのは、その様な潮流のさなかだったのである。

復帰戦は“成功” 2つの懸念点も

 ナダルが復帰戦の場に選んだVTRオープンは、“ATP250”というカテゴリーに属するクレー(赤土)の大会である。“250”とは大会優勝者に与えられるランキングポイント数を表しており、これはATPツアーにおいて最も低い部類に相当する。そのためこの大会には、ランキング10位内の選手はナダルしか参戦していない。ナダルにしてみれば、復帰戦の最大の目標は実戦に慣れることであり、トップ選手とのいきなりの激闘は避けたかったのだろう。さらにクレーはナダルが最も得意とし、同時にヒザへの負担が最も軽いコートである。ナダルは同大会のダブルスにも参戦しており、このことからも、ヒザに負担がかかりにくい状況下で、少しでも多くの試合をこなしたいという意図が見て取れる。

 その意味において、復帰戦は成功だったと言えるだろう。シングルスとダブルスの両方で決勝に進出したナダルは、1週間で計8試合をこなすことができた。「5月の全仏オープンに照準を合わせている」というナダルにとり、試合数は完全復活への重要なファクターだ。

 同時に、シングルスの決勝で世界73位のホラシオ・ゼバヨス(アルゼンチン)に敗れた事実は、復帰第1戦というマイナス要因を鑑みても、少なからずショッキングな結末である。“赤土の王者”の異名をとるナダルが、その赤土の上で決勝戦で敗れたのは過去にわずか4回。しかもその相手はフェデラーとジョコビッチに限られており、クレーでトップ50位外の選手に敗れたのも人生で初の経験である。
 もちろん決勝でのセバジョスは、本人も「生涯をかけた試合」と絶賛するほどに、素晴らしいプレーを披露した。安定したサーブを軸に徹底して攻撃的な姿勢を貫き、直線的な強打を左右に打ち分けナダルを走らせる。73位の肩書きを遥かに凌駕する圧巻のパフォーマンスだったが、それでもやはり、ナダルが万全なら敗れることは無かったのでは……との思いを打ち消すことは難しい。
 では具体的に、この日のナダルは何が“万全”では無かったのだろうか? それには複数の要素が絡み合うが、大別すると次の2点に絞られるように思う。

 一つは、フットワーク。膝の状態はかなり良くなったとは言え、ナダル自身も「まだ痛みはあるし、動きに違和感もある」と認めるように、不安を完全に払拭できた訳ではない。特に選手にとり「不安」というのは相当にやっかいな要素で、先の全豪で膝に負傷を抱えていた錦織も「状態は良くなったが、気持ちの問題もある」と、物理的な痛み以上に気持ちが動きを抑制してしまう現状を口にした。いかに強靭(きょうじん)な精神を持つナダルとは言え、8カ月近くコートを離れた後に、心にひっかかる不安を振り切りギリギリの走りができるはずはない。ナダルというのは、1試合に何度も「このショットを拾ってしまうのか!?」と絶句するほどの脚力を見せる選手だが、この大会でそのような場面は数える程しか無かった。特に決勝では、相手のドロップショットを追うことすらなく下を向くなど、普段はまず無い姿も度々見せている。

 次に、やはり何と言っても大きいのが、試合勘の問題だろう。ナダルに限らず、空白を経てコートに戻った選手の多くが口にするのが「試合勘の欠如」という、一球一打に心技体すべてを注ぐテニス選手ならではの、繊細にして峻烈な感覚だ。かつて、引退後の長いブレークの後にエキジビションに出場した元世界王者のピート・サンプラスは、「僕らにとってクリーンなショットを打つのは、どんなにブランクがあっても難しいことではない。難しいのは、試合の中で走りながら、瞬時にどこにいかなる球種を打つか判断することだ」と、テニスの真髄を説明したことがある。ナダルが今大会で最も苦しんだのも、その部分であった。例えば決勝でも、ボレーを決めるべくネットに出たナダルが、パッシングショットを決められる場面が幾度かあった。相手のショットのコースを読みきれず、ウイナーを簡単に決められたこともある。セバジョスがサウスポーであったことも、事態をより難解にした要因だったかもしれない。いずれにしても、ナダルが露呈したこれらのぎこちなさは、試合勘の欠如に由来するものだろう。

 もちろん、この1週間で得たポジティブな要素も多い。まずは「これだけ試合をしても、膝の状態は維持できている」こと。その上で「日に日に、体調を上げていくことが現時点での目標。なぜなら、テニスのレベルそのものは決して悪くないからだ」とし、今後の展望に目を向けている。そのような長期的な視点に立った上での「コートに立っていることが、僕にとっては勝利」の言葉に嘘はないだろう。

 復帰戦の次の週には、ナダルはブラジルのクレー大会に参戦し、ここでもダブルスもプレーしている。その後は1週間の休みを挟み、翌週にはアカプルコのクレー大会に出場。テニス界のメーンストリームから少し離れた中南米の地で、まずは3週間かけて、失われた試合勘を取り戻すことに精力を傾ける。
 そうして3月に迎える決戦の舞台は、北米のハードコート。“レイジング・ブル=荒ぶる猛牛”の異名も持つ不屈の戦士は、再びテニス界の勢力図をかきかえるべく、ジョコビッチにフェデラー、そしてマレーらが待つ闘技場へと乗り込んでいく。

<了>
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著者プロフィール

テニス雑誌『スマッシュ』などのメディアに執筆するフリーライター。2006年頃からグランドスラム等の主要大会の取材を始め、08年デルレイビーチ国際選手権での錦織圭ツアー初優勝にも立ち合う。近著に、錦織圭の幼少期からの足跡を綴ったノンフィクション『錦織圭 リターンゲーム』(学研プラス)や、アスリートの肉体及び精神の動きを神経科学(脳科学)の知見から解説する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。京都在住。

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