新たな挑戦を決意した梶山陽平が渇望する“成長”=ギリシャ名門への移籍、27歳でつかんだチャンス
2010年末に海外挑戦を決意
パナシナイコス移籍が決まり、出発前に取材を受ける梶山。半年の期限付きだが、欧州での成功を目指す 【写真は共同】
もちろん、海外でのプレーを渇望していた身にとっては、このオファー自体が素晴らしいものだった。期限付き移籍でリスクは少ない。やるしかない。
2009年12月に手術を行い、長年苦しんできた左足首の負担が少なくなった。リハビリを経て10年の春に復帰すると、持ち味の強いキックも躊躇(ちゅうちょ)せずに蹴ることができるようになってくる。不安がなくなると、意欲がわいてきたのだろう、10年末には「(次の)夏に海外へ行く。2部でも構わない」と言い出した。
一度海外志向が表面化するとあとは時間の問題だった。12年の初めには、デュッセルドルフのマジョルカキャンプに短期間ながら合流し、欧州の空気を吸い込んだ。
そしてこの冬、ギリシャ。段階を踏んで届いた待望のオファーに、梶山は応えた。
将軍のようなプレーができるMF
04年にFC東京はスペイン遠征を行い、プレシーズンの親善試合ながらデポルティボ・ラ・コルーニャを相手のホーム、リアソールで撃破した。アジアカップに参加した土肥洋一と加地亮、アテネ五輪に参加した茂庭照幸、今野泰幸、石川直宏、徳永悠平(当時は早稲田大学に所属、特別指定制度でプレー)と6人の主力を欠くメンバーでの快挙。
この試合を決めたのが梶山だった。後半41分、相手ペナルティーボックスの前でボールを奪い、そのまま強烈なミドルシュート。GKフランシスコ・モリーナの手が届かないゴラッソ(編注:スペイン語で「素晴らしいゴール」という意味)だった。スペインのジャーナリストに「いますぐにリーガで通用する」と言わしめたとき、18歳だった。攻撃力だけをとるなら、その時点で欧州行きは可能だったろう。
梶山に似たプレーヤーを思い浮かべる。遠藤保仁。中田英寿。
視野が広く、誰も見ていないような遠くにできるスペースを察知する。たとえば、サイドの奥。Jリーグの試合を見ていれば、梶山が速いロングパスで徳永を走らせ、使役している光景をよく見かけるだろう。たぐいまれなキープ力で懐にボールを収め、決して奪われず、ピッチ上のへそ、中央から睨みをきかせ、ぐいっとてこの原理で押し出すようにパスを放っては攻撃の選手を走らせる。そういう、将軍のようなプレーができるMFはなかなかいない。
大きな刺激が必要だった
細かった体は20代を迎えて分厚くなり、ボランチでスクリーンとなる守備力を備えるに至った。攻撃も守備もこなせるMFへと、梶山は成長した。
惜しむらくは、けがが多く、本調子の期間が途切れとぎれになったことだ。それでも、できる改善はしてきた。友人とは気軽に話せても、取材対応ではシャイになってしまう癖は消え、堂々とスピーチができるようになり、発語量が飛躍的に増えた。好不調の波が大きく安定しない悪癖も徐々に直していった。
欠点の少ない選手に──ただ、それはひとつ間違うと、使いつぶしのきく優等生で終わってしまうことを意味する。さらなる成長を願うなら、大きな刺激が必要だった。梶山の眼が外へ向くのは必然だったのかもしれない。