中山雅史が日本サッカー界に残した偉大な足跡=不屈の男が変わらぬ持ち続けた向上心

元川悦子

「自分のレベルがJリーグの中では厳しい」

現役引退を表明した中山。記録にも記憶にも残る選手だった 【写真は共同】

 三浦知良(以下、カズ)がフットサルながら長年の悲願だったワールドカップ(W杯)出場を果たし、サンフレッチェ広島の森保一監督が就任1年目でJリーグタイトルを獲得するなど「ドーハ組」の活躍が目立った2012年末。この世代を代表する大物ストライカー・中山雅史がユニホームを脱ぐ決断をした。この2年間はひざ負傷の影響でわずか3分しかピッチに立てなかったが、本人は現役続行を目指して懸命にリハビリに励み続けた。しかし「自分のレベルがJリーグの中では厳しい」と実感。尊敬するカズより一足先に現役生活に区切りをつける意思を固め、4日に札幌市内で記者会見に臨んだ。

「まだ未練たらたらです。これでリハビリを終えるつもりもないですし、またバリバリになったらカムバックするかもしれません。その時にはまた会見を開くので、みなさん来てくれますか?」と彼はいきなりメディアを和ませた。こういう引退会見らしからぬ発言をするのも、つねに陽気でサービス精神旺盛な中山らしいところ。この人の一挙手一投足にわれわれ報道陣を含め、多くの人々が勇気づけられてきた。

 そんな中山雅史のキャリアをあらためて振り返ってみると、Jリーグは94〜2012年の1・2部合計で367試合出場157得点。ゴールはすべてJ1で奪ったもので、もちろん歴代最多である。カズの139得点を大きく上回り、中山の背中を追いかけてきた前田遼一も128得点とまだ遠く及ばない。前田には偉大な先輩を超える可能性が残されているものの、中山が当面トップに君臨し続けるのは間違いない。

次々と奪った記憶に残るゴール

 彼は98年に得点王とMVP、2000年にも2度目の得点王を取っているが、当時のジュビロ磐田はきらびやかなタレントと完成度の高いサッカーを誇る常勝軍団だった。藤田俊哉、名波浩、福西崇史、服部年宏、田中誠ら日本代表メンバーに加え、ブラジル代表の主将ドゥンガを擁しており、その共演は見る者をくぎづけにした。そして中山という際立った決定力を持つピースがいたからこそ、彼らは99年アジアクラブ選手権優勝、2002年のJ1年間完全制覇といった数々の偉業を成し遂げた。強さと華麗さを併せ持つこのころの磐田に強い思い入れを持つ人はきっと多いはずだ。

 一方、日本代表では53試合出場21ゴール。遠藤保仁(現ガンバ大阪)のキャップ数がすでに124試合に達している現状を踏まえると、中山の残した数字は意外なほど地味である。

 しかしながら、93年10月の米国W杯アジア最終予選のイラク戦(ドーハ)での2点目、97年11月のフランスW杯アジア最終予選プレーオフ・イラン戦(ジョホールバル)での先制点、そして98年フランスW杯・ジャマイカ戦(リヨン)での1点と、彼は記憶に残るゴールを次々と奪ってきた。

 フランスW杯でチームを率いた岡田武史監督も「中山に関する一番の思い出はジャマイカ戦のゴール」と語ったというが、W杯史上初得点となったあの一発がなければ、その後の日本代表の飛躍的成長もなかったかもしれない。日本が98年フランス、2002年日韓、06年ドイツ、10年南アフリカと4回連続で世界舞台を踏み、02年と10年に2度ベスト16に進出できたのも、中山雅史が惨敗の中で希望の光をもたらしたからと言っても過言ではないだろう。ジャマイカ相手に骨折しながら最後までピッチを駆け抜けた壮絶な歴史は後輩へと確実に引き継がれ、その魂は今に生きている。

日本代表で残したインパクト

 磐田時代、日本代表と中山を取材する機会は数多くあったが、とりわけインパクトが強いのが97年〜2002年の代表での5年間だ。

 日本中が異様な熱気と興奮に包まれた97年秋のフランスW杯最終予選。初戦・ウズベキスタン戦(国立競技場)で激闘の火ぶたが切られた時、中山は加茂周監督率いる日本代表から外されていた。山口素弘のループシュートで知られる9月の韓国戦(国立競技場)ではテレビレポーターとして選手をインタビューする側に回っていたくらいだから、もはや「過去の人」と見る向きも強かった。

 そんな中山が呼び戻されたのが、プレーオフ進出を決めた11月の最終戦・カザフスタン戦(国立競技場)だった。10月のカザフスタンに引き分けた後で加茂監督が更迭され、岡田武史HC(ヘッドコーチ)が監督に昇格。チーム立て直しを図るも、紆余(うよ)曲折が続き、一時は自力突破の可能性がなくなった。それでも11月の韓国戦(アウエー)で何とか勝ちきり、本大会出場への望みが再び出てきた。が、次のカザフスタン戦でカズと呂比須(ワグナー)が出場停止となったことから、岡田監督は中山にチームの命運を託したのだ。この大一番で勝利を決定づける3点目を奪った時、彼は下に着ていた盟友・カズの背番号11のユニホームを見せるパフォーマンスを披露。いかに2人が固い絆で結ばれているかを如実に示した。

 少し後のことになるが、そのカズがフランス大会直前のスイス・ニヨンで最終登録メンバー落ちを通告された時、中山は顔をこわばらせ、普段は見せない緊張感を漂わせていた。直前合宿地のエクスレバン(フランス)入りした際には「もうカズさんのことは吹っ切れた」と言っていたが、雨の降りしきる中で腹筋背筋やシュートと自主トレに精を出すなど、並々ならぬ意欲を前面に押し出していた。中山がジャマイカ戦で満身創痍の中で得点を奪ったのも、不完全燃焼感を抱えて帰国を強いられたカズの分まですべてを出し尽くそうと決意していたからだろう。本人としては、カズより1日でも長く現役を続けたかったというのが本音ではないか。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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