王貞治の言葉で振り返る、城島の野球人生

田尻耕太郎

引退会見で涙をぬぐう城島。会見翌日の9月29日、ファームでの試合で現役生活に幕を下ろした 【写真は共同】

 プロ野球の秋は惜別の季節。今年は例年以上に大物選手が次々とユニフォームを脱ぐ決断をしている。その中でひと足早く引退試合を済ませてしまったのが阪神の城島健司だ。
 9月28日に今季限りでの引退を表明。同日は多くの球界関係者がコメントを寄せた。かつての古巣・福岡ソフトバンクホークスでもこの件について幾つか取材の場が設定されたが、やはり聞き逃したくなかったのが王貞治球団会長の言葉だった。

王との出会い 工藤、武田が育てた若き城島

 城島といえば王である。
 城島が中学3年の時。地元・長崎県佐世保市で参加した野球教室で「キミは才能がある」と褒められたのが2人の初めての出会い。それが1991年のこと。時が流れ、94年の秋に「福岡ダイエーホークス・王貞治監督」が誕生する運びとなり、この年のドラフトの目玉が別府大付高(現明豊高=大分)の城島。王ホークス最初のドラフト1位指名選手として、城島はプロ入りし、そこから2人の師弟関係が始まった。それは城島が海を渡った後も、阪神に移籍してからも、互いの感情は変わらなかった。

 王会長が城島の引退について語った言葉とともに、城島の輝かしい軌跡の一部を振り返ってみたい。

「何? 彼辞めちゃうの、というのが第一でしたね。故障をしたり手術をしたりしたのは聞いていたが、彼のハートの熱さからすると、乗り越えて元気な姿を見せてくれると思っていた。とにかく残念ですね。
 入団当時のことはよく覚えています。あの時(ドラフト指名あいさつ)は大分まで行きましたね。学校中の生徒さんが彼との(自分の)出会いを待っていてくれた。彼はそのころから人をワクワクさせる、気持ちを高ぶらせるようなものを持っていた。物おじしない、18歳だが、すでに大物の雰囲気を持っていましたね。
 しかし、最初の2年間はファームだった。本人はつらかったと思う。その代わり、全部使うとチームとして決めていた。あの性格だから1日も早く上がってやろうと思っただろうが、よく我慢した」

 球界を代表する捕手となった城島もプロ入り当初は苦労をした。2年目までの1軍出場はわずか29試合。しかし、3年目の97年に120試合に出場。もともと定評のあった打撃では打率3割8厘をマークしてみせた。また、当時のダイエーホークスは工藤公康、武田一浩というベテランが投手陣を引っ張っていた。彼らに叱咤(しった)されながら城島は捕手術を磨いていった。当時を知る球団スタッフによれば、周りがちょっと引いてしまうほど厳しく指導されたこともあったが、それでも城島は正面から彼らの言葉に耳を傾けた。

「キャッチャーは簡単ではない。でも、その2年間があったから、誰からも信頼されるキャッチャーとなった。若い投手には投げやすいキャッチャーだったと思います。『オマエは悪くない。どんとこい』というような姿勢が、われわれやお客さんにも伝わりやすかったのではないでしょうか。また、バッターとしては意外性があった。われわれから見ても、ワクワクドキドキするような打撃をしていました」

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著者プロフィール

 1978年8月18日生まれ。熊本県出身。法政大学在学時に「スポーツ法政新聞」に所属しマスコミの世界を志す。2002年卒業と同時に、オフィシャル球団誌『月刊ホークス』の編集記者に。2004年8月独立。その後もホークスを中心に九州・福岡を拠点に活動し、『週刊ベースボール』(ベースボールマガジン社)『週刊現代』(講談社)『スポルティーバ』(集英社)などのメディア媒体に寄稿するほか、福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルメディアともライター契約している。2011年に川崎宗則選手のホークス時代の軌跡をつづった『チェ スト〜Kawasaki Style Best』を出版。また、毎年1月には多くのプロ野球選手、ソフトボールの上野由岐子投手、格闘家、ゴルファーらが参加する自主トレのサポートをライフワークで行っている。

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