駒野友一、“便利屋”からレギュラー奪取へ=恩師・ジーコの前で示した確実性と安定感

元川悦子

酒井高も舌を巻くクオリティーの高さ

イラク戦では出場停止の内田に代わり右サイドバックで先発した駒野。ベテランならではの安定感で見事にその穴を埋めた 【Getty Images】

 11日に行われた2014年ワールドカップ(W杯)・ブラジル大会アジア最終予選第4戦・イラク戦(埼玉)。実力未知数のロンドン五輪世代の大量抜てき、日本のキープレーヤーである遠藤保仁、長谷部誠、本田圭佑の中盤3人へのマンマークという想定外の策を講じてきたジーコを前に、ザックジャパンは序盤からかなりの苦戦を強いられた。出場停止の内田篤人に代わって右サイドバックに入った駒野友一も、積極果敢に仕掛けてくる左MFアハメド・ヤシーン(9番)の対応には手を焼いた。しかし、サイド職人は持ち前の安定感と確実性を武器に、ピンチを未然に防いでいた。

 そして前半25分、大きな見せ場が訪れる。右タッチライン際でのスローイン。彼はDFの背後に鋭く飛び出した岡崎慎司を見逃さず、深い位置にボールを出した。反応した岡崎は最高のタイミングで折り返す。これをFW前田遼一が頭で合わせ、値千金の先制ゴールを挙げた。練習していたというスピーディーなリスタートにイラク守備陣は全く反応できず、棒立ちになっていた。実に見事なトリックプレーだった。

「あれは決まり事。自分の引き出しの1つですね。ジーコさんにはもっと足で結果を出すところを見せたかったですけど……」と駒野本人は苦笑いしていたが、この一発がなければ、日本は勝ちきれなかった可能性も否定できない。駒野の機転の利いたプレーが勝ち点3獲得の原動力になったのは間違いない。

 90分トータルで見れば、可もなく不可もなくというパフォーマンスだったかもしれない。それでも、内田と酒井宏樹という若い2人が離脱する中、彼がベテランの味を出してしっかりと穴を埋めたことは特筆に値する。8月のベネズエラ戦(札幌)では右、6日のUAE戦(新潟)は左に入ってアシストも記録しており、アルベルト・ザッケローニ監督の信頼もより一層、深まったことだろう。

 同タイプの酒井高徳も「僕なんかは両方を何とかこなすくらいしかできないけど、駒野さんは常に結果を残してる。守備も安定してるし攻撃も難なくやるし、両足のクロスも非常に精度が高い。あれだけのクオリティーを見せられるのはホントにすごい。自分が目指すべき理想の姿ですね」と舌を巻いていた。

「ジーコジャパンのころとの違い? 一番大きいのは自信だと思います。年齢も重ねているので」と駒野はあくまで謙虚な姿勢を崩さなかった。それでも、自身を日本代表に初めて招集してくれた恩師・ジーコの前で存在価値を少なからずアピールできたことに、彼自身も安堵(あんど)感を抱いたのではないだろうか。

6年間コンスタントに招集されているが

 駒野が国際Aマッチデビューを飾ったのは05年8月の東アジア選手権・中国戦(大田)。首尾よく加地亮のバックアップ役に定着し、06年ドイツW杯の代表メンバー23人にも選ばれた。「ジーコさんには『代表には順序がある』と言われた。最後の最後で入った自分にはなかなかチャンスがなかった」と長谷部も語っていた通り、最終予選を経験せずに本大会の切符を手にしたのは、駒野と巻誠一郎、田中誠の代役で急きょ呼ばれた茂庭照幸の3人だけ。右サイドバックの人材難が駒野には幸いしたのだ。そして大会直前に加地が負傷。彼は本当にW杯のピッチに立つことになった。

 ところが、フル出場した初戦のオーストラリア戦(カイザースラウテルン)で、日本は残り6分間で3点をたたき込まれ、屈辱的な逆転負けを喫する。駒野自身は1−1になった直後、巻き返しを図るべく猛然とドリブルでペナルティーエリアに突進。倒されたが、PKを取ってもらえなかった。これはのちにFIFAが「誤審」と認める悔しいプレーだった。このショックが癒えないうちに、FWアロイージにアッサリと突破されてダメ押しの3点目を献上してしまう。「アロイージにかわされた瞬間、足がつってしまって……。完全に自分の力不足でした」と本人も絶望的な思いに打ちひしがれた。ジーコの恩に報いることができないまま、初めての大舞台は無残な形で幕を閉じたのだった。

 あれから6年間、駒野はほぼコンスタントに代表に名を連ねている。けれども、完全にレギュラーを勝ち取っていたのはオシムジャパン時代だけ。それも本職の右ではなく、左サイドバックだった。本人の中ではどこかしら納得のいかない部分があっただろうが、国際舞台に立ち続けられる喜びは実感していたはずだ。が、2008年の岡田武史監督就任後は内田と長友佑都が一気に台頭。彼は「左右をこなせる便利な存在」として再び控えに逆戻りさせられた。

「スタメンで出る時は平常心でできるんですけど、途中出場だと『今まで以上のプレーをしよう』とか『時間が短いんだから強引にでも自分を出そう』と余計な力が入ってしまう。どうしたらいいか考えてばかりでした」と駒野は2010年南アフリカW杯まで2年間の苦悩を打ち明ける。それでも腐らず、コツコツと準備を続けるのがこの男のいいところ。南アで2度目となるW杯の出場機会が巡ってきたのも、あきらめない姿勢の賜物(たまもの)だったに違いない。

1/2ページ

著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント