長谷部誠が直面するかつてない危機=日本代表とクラブの狭間で揺れるキャプテン

元川悦子

代表での立場も微妙になりかねない

ベネズエラ戦では途中交代。長谷部(右)の運動量は後半になって明らかに低下した 【Getty Images】

 時折小雨がぱらつく曇天の中、札幌ドームで行われた15日のベネズエラ戦。アルベルト・ザッケローニ監督は後半17分に早々と細貝萌の投入を決断し、キャプテンマークをつける長谷部誠をベンチに下げた。

 昨年10月のベトナム戦(神戸)や5月のアゼルバイジャン戦(エコパ)などのように、テストマッチで新戦力を試すために彼を前半だけで退かせるケースは過去にもあったが、今回はどうも様子が違った。前半は遠藤保仁と並んで攻守の起点になりつつ、効果的なパスさばきからチャンスメークをしていたのに、後半になって明らかに運動量が低下し、動きが鈍ったからだ。ボールを奪われるミスが増えた長谷部のことをザッケローニ監督も見逃さなかった。

「中盤は前半プラス何分かはいい出来だったが、途中でペースが落ちてしまった。長谷部はドイツでリーグ戦を1試合もしていないし、本田(圭佑)も昨日到着したばかり。そういう理由もあったと思う」と指揮官は試合後の記者会見でこうコメント。まだプレシーズンであることを強調した。

 しかし、途中交代について長谷部に尋ねると「そのことは監督とは話してるし、いろんな要素がありますけど、まあ、言えない部分もあります……」と実に歯切れが悪く、必ずしもオフシーズンという理由だけでないことがうかがえた。「細貝君を試してみたかったのでは?」と話を振ると「もちろんハジ(細貝)だけじゃなくて、ライバル争いというのは代表では常にないといけないと思ってますけど、今回はそういう部分はあんまり関係ないと思います」と言う。であれば、所属のボルフスブルクでの現状にザッケローニ監督が懸念を示したとしか考えようがなかった。

 実際、長谷部はベネズエラ戦直前、フェリックス・マガト監督からトップチームの合宿に帯同しなくていいと伝えられ、Bチームで練習を行っていたという。複数のドイツメディアも「事実上の戦力外通告」と報じている。本人は「日本に戻るまでの間、けっこう向こうでやってきてますから、コンディション的には問題ないです」と語っていたが、香川真司のように南アフリカや上海、バルセロナ遠征で強豪チームと実戦を数多く重ねてきたわけではない。こうした状態を指揮官も頭に入れ、今後のために細貝を長めに使って慣らしておきたかったのだろう。

「代表に来たら代表のことだけに集中する」と長谷部は言い続けていたが、やはりクラブで試合に出られなければ、代表での立場も微妙になりかねない。その現実の厳しさを、彼は再認識したのではないだろうか……。

本職のボランチではなく、便利屋的に起用され

 2008年1月に浦和レッズからドイツ・ブンデスリーガ1部のボルフスブルクへ移籍した後、長谷部は順調なステップアップを遂げてきた。特に最初3シーズンの飛躍は目覚ましいものがあった。

 移籍当初の07−08シーズンは後半戦からの新天地合流だったにもかかわらず、コンスタントに出場。肉体的にたくましくなり、対人プレーや球際の部分も急激に強くなった。2008年5月のコートジボワール戦(豊田)で岡田武史前日本代表監督が久しぶりに彼をスタメンに抜てきした際には、フィジカル面に秀でたアフリカ人選手をなぎ倒して前に出て行く力強さとタフさをアピール。指揮官やメディアを驚かせた。そこから一気に代表レギュラーのポジションを奪い、現在に至る遠藤保仁との鉄板ボランチコンビを形成することになったのだ。

 08−09シーズンは、ボランチのみならず、右サイドバック、右サイドハーフでプレーし、ブンデスリーガ優勝に大きく貢献する。そして翌シーズンには欧州チャンピオンズリーグを経験するなど、世界の大舞台の経験を蓄積した。2010年南アフリカワールドカップ(W杯)大会直前に突然、キャプテンを指名された時も、こうしたハイレベルの国際経験に裏打ちされた自信からか、決して動じることはなかった。ザッケローニ監督も就任当初から「長谷部は生粋のキャプテンだ」と強調。2011年アジアカップ(カタール)優勝を経て、その立場は不動のものと見られた。

 ボルフスブルクとの最初の契約は2011年6月まで。長谷部自身は移籍を希望した時期もあったようだが、2011年3月に恩師のマガト監督がシャルケから復帰したことも手伝って、クラブ側から好条件で延長のオファーを受けた。本人も2014年ブラジルW杯まで落ち着いた環境でプレーできると考えたのだろう。2014年6月までの契約延長にサインした。

 ところが、2度目の契約後、最初のシーズンとなった11−12シーズンは予想外の方向に進む。トップ下や右サイドバック、右サイドハーフ、挙句の果てにはGK(GKが退場した時点ですでに3人の交代枠を使い切っていたため)と、長谷部はマガトによって便利屋のように使い回されたのだ。前半戦途中からやっと本職のボランチに落ち着いたかと思いきや、クラブ側は冬の移籍期間にチェコ代表MFペトル・イラチェクらを大量補強。ベンチ外に追いやられるケースも出てきた。その後も不安定な状況が続き、最終的にリーグ34試合中23試合(うち先発20試合)出場という数字は残したものの、彼の中では不完全燃焼感でいっぱいだったようだ。

 それでも長谷部は「ドイツに来てから4年間ずっとこんな感じなんで……。1試合出なかった、1試合メンバー入らなかったっていうのを一喜一憂することはないし、免疫ができたのはありますね」と言い、必死に割り切ってドイツ6年目に向かおうとしていた。その矢先にまさかの事態に追い込まれたのである。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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