進化を続ける義足のスプリンター山本篤「まだまだ記録は伸びる」=パラリンピック・インタビュー

瀬長あすか

北京の結果には「決して満足はしていません」

「走り幅跳びで金メダル、100メートルでもいい色のメダルを」とロンドンパラリンピックの目標を語る山本 【Photo:吉村もと(MA SPORTS)】

 北京パラリンピックの走り幅跳びで銀メダルを獲得した山本篤(スズキ浜松AC)。日本人の“義足アスリート”として初のメダリストとなった。現在は、自動車メーカーのスズキに勤務しながら、大阪体育大を練習拠点とし、目前に迫ったロンドンパラリンピックに向けて練習に励んでいる。

――初めてのパラリンピックだった北京大会では走り幅跳び(F42/片大腿切断などのクラス)で2位、100メートル(T42クラス)では5位でした。ご自身では納得のいく大会でしたか?

 パラリンピックで結果を残せたという意味で、走り幅跳びのメダルは良かったと思うのですが、本命の100メートルで失敗したので、決して満足はしていません。100メートルはスタートがうまくいかず、自己ベストにもまったく及びませんでした。

――9万人収容の鳥の巣(北京国家体育場)は、パラリンピックが行われた会場の中でも特別に熱気がありましたね。

 2005年以降、海外の試合にもできるだけ出て、どこの国に行っても「自分のホーム」という気持ちで走れるよう準備してきました。06年からは年2、3回は海外に出て経験を積みました。だけど、北京パラリンピックは独特な雰囲気を感じました。

――今年の5月には、ロンドンのテストイベントに出場し、「下見」をしたそうですね。

 会場によって異なるスタートブロックを確認しておきたかったんです。パラリンピックで初めて知って対応できずに後悔したくはないですからね。いつも練習で使っているブロックよりも少し高さがありました。帰国後すぐにブロックを変えてスタート練習を始めて、うまく対応できるようにしています。実際に6月の「ジャパンパラ陸上競技大会」では、日本であってもロンドンのブロックを意識して、しっかり踏むことができました。

――オリンピックスタジアムの印象を聞かせてください。

 選手村から歩いて行ける距離にありますが、とにかく大きかったです。観客席との距離が近くて、あとは室内トラックがあるのがいいなと。テストイベントには、僕の障害クラスのレースが設けられていないとのことだったのですが、障害の軽い人と同じ、他のクラスでいいからエントリーさせてくださいとお願いして出場しました。スタートラインに立ったときは、すこし気持ちが高まりましたね。

――ロンドンに向けて着々と準備されていますね。やはりパラリンピックは特別な大会ですか?

 毎年メーンの大会を決めてピークをもっていきます。ロンドンが近づいてきて、周りに応援してもらったり、逆に「大変だね」とか言われたりするけれど、僕自身は「年に1回のメーンの大会」という位置づけで、今のところは練習しています。あまり気持ちが入りすぎると変になりますしね(笑)。

――所属は、もともと実業団だったスズキ浜松アスリートクラブ。会社のサポートが大きい分、結果を出さなくてはいけないプレッシャーがあるのではないでしょうか?

 僕の競技生活にすごく理解を示してくれています。平日は営業所で働いているんですけど、週4回、14時までの短縮勤務で、業務が終わってから、大阪体育大で練習させてもらっています。海外遠征など費用面でもサポートしてくれる。僕はすごく恵まれています。自分の中で会社に報告しなくてはいけないことの最低ラインがメダルです。北京でメダルを取れたことで、いまはプレッシャーなく競技ができるのかもしれません。

――ここまでの競技生活で最も苦しかったことはなんですか?

 僕は順調に結果を残しているように思われがちなんですけど、実は04年のアテネパラリンピックに出場できなかったんです。周りの義足のトップ選手は、だいたい日本代表に選ばれていたんですけど、僕はタイムが伸びず、狙っていたのに出られなかった。大会中は、日本で試合結果をチェックしながら『自分が出場していたら絶対にメダルが取れたのに』って思いました。ものすごく悔しかったですね。それから、練習環境を整えてより一層、陸上に打ち込むようになりました。

陸上との出会いは競技用の義足を見て「かっこいいなあ」と

 高校時代に起こした事故で左大腿(だいたい)部を切断した山本。卒業後は、義肢装具士になるため専門学校の門戸をたたく。そこで競技用義足に魅せられた山本は、やがてその義足で走ることに夢中になっていく。

――高校時代のケガについて聞かせてください。

 高校2年の3月にバイクに乗っていて自損事故を起こしました。左脚の粉砕骨折により細菌が増殖し、4月、最終的に太ももから下を切断することに。高熱が続いてそれは大変でしたから、切断するかどうかは大した問題ではなかったですね。5月の退院を迎えるまで、母親は看病などで大変だったと思いますが、もともと家族の仲が良く、当時中学生だった弟も、2つ年上の兄もよく病室に来てくれました。今でも家族そろって僕が出場する大会を見に来てくれるほど家族の結びつきは強いです。

――高校卒業後、日本聴能言語福祉学院の義肢装具学科に入学したのはなぜですか?

 退院して間もなく、高校卒業後の進路をどうしようということになりました。僕のリハビリの担当だった理学療法士さんが、とてもパワフルで元気を与えてくれる存在だったので「こういう人になりたいな」と憧れるようになり、理学療法士を目指そうと思いました。でも、その後、義足を作ることになって、義肢装具士さんと話して、「あ、こっちもやりがいのある仕事だな」と。どちらも魅力的で迷いました。それで、どうしていいか分からなかったので、理学療法士さん、義肢装具士さんを呼んで3人で相談することに。

 そのとき、理学療法士さんにはっきりこう言われました。「理学療法士は身体が動く若いうちはいいけど、年をとってからは体力的にきついぞ。お前にせめても膝があれば勧めたんだけど。お年寄りを移乗させたり、体重が重い人を支えたりするときに、何か起きてもおまえだけの責任じゃすまされないからね」と。なるほど、と納得しましたね。
 それで、義肢装具士さんからもいろいろ話を聞いて、最終的に義肢装具士の道に進むことにしました。

――陸上との出会いはどのようなものでしたか?

 専門学生のとき、初めて競技用の義足を見て、走ることを考えて作られている形がかっこいいなあと思いました。このかっこいい義足で速く走れたら、どんなにかっこいいだろうと考えましたね。バイクや車を購入するとき、自分好みの形のものを選びますよね。それと同じ感覚で競技用義足を手にとりました。

――初めて競技用義足を使用して走ったのはいつですか。

 あるとき、市民病院の小さな陸上大会へ誘われて、手持ちの義足で参加しました。そのときに競技用義足を持っていた方がいて、貸してくれるというので、それを使って走ってみたのが最初です。実際に走ってみて、いきなり転んだんですけど、もっと速く走れそうだなという手応えのようなものがありました。冬はケガをする前からやっていたスノーボードがあるし、ちょうど夏にできるスポーツを探していたこともあって、陸上を始めることにしました。

――専門学校を卒業後、大阪体育大にスポーツ推薦で進学します。

 義肢装具士の国家資格を取得し、愛知に本社がある松本義肢への就職も決まっていました。実は専門学校に通うための奨学金を、松本義肢からもらっていたのですが、このまま就職したら陸上ができないと思い、就職を踏みとどまって大学に進みたいと考えるようになったんです。もしかしたら、パラリンピックに出られるかもしれない、あとタイムがコンマ何秒か伸びたら日本代表になれるかもしれない時でした。漠然とですけど、大学で専門的に学びながら陸上部に入って、そのメニューをこなしたら、もっとタイムが伸びるイメージもありました。幸い松本義肢の社長さんが「お前が頑張るなら応援するよ」と言ってくれたこともあり、22歳で大学に入学することにしました。

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著者プロフィール

1980年生まれ。制作会社で雑誌・広報紙などを手がけた後、フリーランスの編集者兼ライターに。2003年に見たブラインドサッカーに魅了され、04年アテネパラリンピックから本格的に障害者スポーツの取材を開始。10年のウィルチェアーラグビー世界選手権(カナダ)などを取材

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