プレッシャーの中でつかみ取った価値ある銀メダル=フェンシング男子フルーレ
「崖っぷち」で迎えた男子フルーレ団体
準決勝を制して喜ぶ太田(中央奥)ら日本の選手たち。各々が責務を果たして、団体戦の銀メダルをつかみ取った 【Getty Images】
34−30と日本が4点のリードを得たところからエースの太田雄貴(森永製菓)がドイツのエース、ピーター・ヨピッヒに逆転を許し、残り10秒を切ってスコアは38−40となった。
しかし、この絶体絶命とも言うべき状況から、太田が残り1秒からの奇跡とも言うべき再逆転劇を演じ、日本男子フルーレが史上初めて団体戦での決勝進出を果たす。
苦しみながらもつかみ取った栄誉は、この4年間をかけて歩んできた日本フェンシング界を象徴するシーンでもあった。
男女6種目で、金メダル2つを含む5つのメダル獲得。
それが、ロンドン五輪に臨むフェンシング日本代表チームに掲げられた目標だった。
しかし実際はと言うと、男子エペ、サーブルでは出場枠を逸し、最低ラインであったはずの「全6種目での出場」を果たせず。それでも女子フルーレ個人戦で日本人選手として初めて2大会連続で7位入賞を果たした菅原智恵子(宮城ク)に加え、初出場の池端花奈恵(京都ク)も8位入賞と健闘した。だが、女子エペの中野希望、サーブルの中山セイラ(ともに大垣共立銀行)は2回戦で敗退した。
太田を含む3選手が出場した男子フルーレ個人戦に期待が寄せられたが、その太田も世界ランク1位のアンドレア・カッサーラ(イタリア)との3回戦で、1本勝負の末に惜敗。まさに「崖っぷち」とも言うべき状態で迎えた最後の砦が、男子フルーレ団体戦だった。
“北京後”の変化とプレッシャー
しかし、太田が「悲願」を達成した4年前から、フェンシング界を取り囲む状況は一変した。
北京では男子フルーレのみだった外国人プロコーチが、女子フルーレ、男女エペ、男女サーブルにそれぞれ招へいされ、各コーチを日本人の専任アシスタントコーチがサポートする形となった。さらにトレーニング指導を担当するトレーナーや、管理栄養士、映像分析や情報収集の専門家もスタッフとして加わり、練習拠点とする国立スポーツ科学センターの練習場を含めた練習環境は、北京の前と比べれば格段の進歩を遂げた。
確かにこれは“北京前”と比べれば、進化した支援体制ではある。しかし、さらなる高みを目指す競技の目標を達成するために、決して過剰なサポート体制というわけではない。
それでもフェンシングに携わる選手、スタッフは、事あるごとに支援者への感謝を口にしてきた。そして同時に、「何としてもメダルを取らなければならない」と追い込まれていたのも、他ならぬ選手たちだった。
その理由を、太田はこう明かす。
「僕らが注目されるのは4年に一度。いくらそこまでの過程があったとしても、オリンピックで結果を出さないと、見る人からすれば意味がない。求めるものの位置が高くなったら、要求されるものの位置も高くなるし、より高い要求に僕たちは応えなければなりません。だから今、ここで戦う選手たちには『この環境で満足したらダメだ』ということも、『自分たちで切り開かなければ、いつだって逆戻りする』ことを忘れてほしくないし、その責任を背負っていることを常に意識しなければならないんです」
太田自身も09年に日本人選手として初の世界ランク1位に輝いたが、その後は相次ぐケガに見舞われ、万全とは言い難い状況での戦いが続いた。それでも、常に結果を求め続けられた4年間。自らの満足や、栄誉のためだけでなく、これからのフェンシング界のために――。「金メダルを獲るために生まれてきた」と自らに使命と課して、臨んだ大会がロンドン五輪であり、その最後の決戦がチームで戦う団体戦だった。