吉田麻也、チームに安定感をもたらした頼れる主将

元川悦子

大成功だった吉田の抜てき

キャプテンとして絶大な存在感を見せる吉田。彼の加入がチームに安定感をもたらした 【写真は共同】

 0−0のまま終盤を迎えた8月1日のロンドン五輪1次リーグD組最終戦・ホンジュラス戦(コベントリー)。1位通過を目指していた関塚ジャパンは、当初の勝ち点3狙いを改め、残り5分というところでリスクを冒さず、引き分けに持っていく戦い方に転換した。セットプレーのチャンスがあっても吉田麻也、鈴木大輔の両センターバックは前線に上がらない。「無駄なリスクをかけていく必要もないかなと思ったので、ベンチの指示と自分たちの判断で決めました」と吉田は涼しい顔で言う。

 しかし、スタンドの観衆は消極的な戦いに不満を感じていた。最終ラインで徹底して横パスをつなぐ日本も容赦ないブーイングを浴びせられた。鈴木は異様な雰囲気と重圧に耐えきれず、前線に大きく蹴り出してしまい、関塚隆監督らスタッフから大目玉を食らったが、ザックジャパンでレギュラーを張る吉田は決して動じなかった。

「見ている側からしたらあんまり面白くなかったかもしれませんけど、1位通過のためにはそういう展開もしょうがない。ディフェンスとしては0−0で問題なかったから。まあ、大輔はみんなにいじられてましたけどね」と冗談を交えながら最終盤の戦いぶりを堂々と語るあたりが、国際経験豊富な彼らしいところだ。

 落ち着きとユーモアを併せ持ったオーバーエイジのキャプテンを得たことは、今回の関塚ジャパンを語るうえで不可欠なポイントだ。北京五輪惨敗の屈辱を味わった彼は、合流当初から「五輪という大会はあっという間に終わってしまう。初戦にすべてを懸けるつもりで戦わないといけない」と強調。若い選手たちを鼓舞してきた。7月26日のスペイン戦(グラスゴー)の入りが非常によかったのも、五輪の難しさを痛感している吉田や徳永悠平が周囲の意識を高め続けてきたことが大きい。彼らがいなければ、スペインに勝てたかどうかも分からないのだ。

 さらに吉田は、ザックジャパンでの2011年アジアカップ(カタール)優勝や、所属するVVVフェンロの降格争いから、失点しないことが勝利への鉄則であることを熟知していた。そのためにも、終盤の戦い方には特に神経を尖らせる必要がある。実際、7月11日の壮行試合・ニュージーランド戦(東京・国立)でも中途半端なゲームマネジメントから最後の最後で同点に追いつかれている。そんな不用意なミスを避けるべく、ホンジュラス戦でもリスク最小限のサッカーに徹した。

 こうした「老獪さ」を関塚ジャパンにもたらしたのは特筆に値する。指揮官の吉田抜てきは大成功だったといえるだろう。

髪型をソフトモヒカンにしていた時期も

 吉田麻也は1988年8月24日、男ばかりの3兄弟の末っ子として長崎市で生を受けた。両親が共稼ぎだったこともあり、7つ年上の長兄・穂波さんが親代わりとなって面倒を見ることが多かった。その兄は吉田が少年のころ、家の前の急坂でボールコントロール練習を頻繁にやらせていた。彼が左右両足で精度の高いボールを蹴れるのも、この取り組みの成果と言えるかもしれない。麻也少年は幼いころから大柄な子供だったが、年の離れた兄たちと一緒にサッカーをしていたことでフィジカルに依存しないプレーの工夫を凝らすこともできた。現在の彼が189センチという長身にもかかわらず、柔軟に幅広い役割をこなせるのは、幼少期からの地道な積み重ねが大きい。

 本気でプロを目指すようになったのは、名古屋グランパスU−15時代。穂波さんがたまたま見つけたセレクションを受けて合格し、2人で親元を離れて愛知県で共同生活を送りながらサッカーにまい進することで、より高いレベルを追い求めるようになった。小学生のころはFWだった彼がボランチとして土台を築いたのもこのころ。レアル・マドリーで活躍していたクロード・マケレレのボールを奪う動きを徹底的に研究し、ピッチ上で実践していたという。

 名古屋U−18時代には、朴才紘監督(現千葉アカデミー育成マネジャー)からプロで成功するための英才教育を受けた。厳しい局面で精度の高いクサビのボールを入れることを日常的に要求され、彼のパスセンスは飛躍的に向上した。確固たる武器を磨いたことがトップ昇格後、センターバックにコンバートされてから大いに生かされる。今の日本サッカー界でここまでしっかりと攻撃を組み立てられるDFは彼や今野泰幸ら数人だけ。育成年代で自分の長所を伸ばしてくれる指導者と出会えたことを吉田は深く感謝している。

 一方で、彼はサッカーを突き詰めるだけでなく、他のさまざまなことにも好奇心を抱いた。「サッカー選手で練習以外ずっと家にいるやつと、いろんなことにチャレンジしてるやつとどっちが人生を謳歌(おうか)してるかっていったら、絶対後者でしょ。多感な方が絶対に得るものも大きいと思います」と遊び心を大事にし、勉強やバスケットボール、音楽などにも興味関心を寄せた。中学生のころには02年のワールドカップ(W杯)・日韓大会で一世を風靡(ふうび)したデイビッド・ベッカムに触発され、髪型をソフトモヒカンにしていた時期もあったようだ。英語もこのころからコツコツと勉強していたから流ちょうに話せる。VVVでもハイ・ベルデン会長から「相談がある」と呼び出されることも少なくないというから、その語学レベルの高さが分かる。

「サッカーバカにはなりたくない」との口癖を自ら実践してきた吉田の人間性を、北京五輪の代表に引き上げた反町康治監督(現松本山雅監督)も高く評価。「最後の最後で麻也を選んだ決め手はパーソナリティー。こいつは大きく伸びると思った」とのちに語っている。何事にもどん欲なその姿勢が、彼の成長の原動力となったのだろう。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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