日本サッカーの進化をけん引した絶対的キャプテン=元日本代表・宮本恒靖に託された次なる仕事

元川悦子

「どんな時も100パーセントで、絶対に手を抜いたりしない人」

2004年のアジアカップではキャプテンとして日本を優勝に導いた宮本。ヨルダン戦ではPK戦の陣地を変更させるなど機転を利かせ、チームの窮地を救った 【写真は共同】

 真夏の太陽がギラギラと照りつけた海の日の7月16日。ヴィッセル神戸の本拠地・ホームズスタジアム神戸には、中田英寿や中村俊輔(横浜F・マリノス)ら元日本代表選手を筆頭に豪華メンバーが50人以上も集結した。彼らが一堂に会したのは、2002年日韓、06年ドイツの両ワールドカップ(W杯)で日本代表キャプテンを務め、昨年末に現役生活に終止符を打った宮本恒靖の引退試合に華を添えるため。「ツネさん」として親しまれ、日本サッカー界をけん引してきた男との時間を惜しむかのように、かつての仲間たちは魂を込めてプレーした。

 宮本は、04年アジアカップ優勝メンバーを軸に構成されたTSUNEフレンズ、05年にJ1制覇したガンバ大阪のメンバーが顔をそろえたGAMBAフレンズ、そして現役最後のクラブとなった神戸の仲間たちで結成されたVISSELフレンズの3チームで各30分ずつプレー。TSUNEフレンズでは中田浩二(鹿島アントラーズ)、中澤佑二(横浜FM)と、およそ10年ぶりのフラット3を形成し、当時と変わらない巧みなラインコントロールを披露した。「浩二や佑二とはオフサイドを取りに行く場面でも、あうんの呼吸でやれた」と宮本自身も笑みを浮かべた。

 02年W杯時の「バットマンブーム」を再現するかのように、フェースガードをつけて登場したり、オーバーヘッドを放ったり、愛息・恒凛君とピッチ上で共演するなど、さまざまなサプライズも見せてくれた。
「ツネさんはどんな時も100パーセントで、絶対に手を抜いたりしない人。そういうすごさを今日、あらためて見せてもらった」
 G大阪で、共に最終ラインを担った山口智(ジェフ千葉)もしみじみ語るように、宮本は90分間を全力で走り抜けた。どこまでも一生懸命な姿に、スタジアムに集まった1万5000人超のファンから惜しみない拍手が送られた。

トルシエ時代とジーコ時代の日本代表キャプテンとして

 大阪・富田林市の伏山台小学校5年の時に本格的にサッカーを始め、金剛中学時代には自国開催だった93年U−17世界選手権(現U−17W杯)に挑む日本ジュニアユース代表入りした宮本。FWからDFにコンバートされ、初めて立った国際舞台で実感した球際の強さ、当たりの激しさが、世界への渇望を高めるきっかけになったという。

 その後、マレーシアで開催された97年ワールドユース(現U−20W杯)、00年シドニー五輪と年代別代表を総なめにし、02年と06年のW杯にはキャプテンとして出場。中田英寿、故・松田直樹とともに、彼は先駆者として日本サッカー界の新たな道を切り開いてきた。

 宮本がいなければ、フィリップ・トルシエ監督の難解な戦術である「フラット3」は機能しなかったし、02年大会ベスト16進出の成功もなかった。「02年の時にはツネさんの号令のもと、DFの4〜5人で集まって話をすることが多かった。よくコミュニケーションを取ったのがよかった」と中田浩二も話しており、この気配りが守備の安定につながったといっても過言ではない。そして、ジーコ監督時代に挑んだ04年アジアカップ(中国)優勝も、彼なしではあり得なかった。準々決勝の対ヨルダン戦で、レフェリーにPKの場所を変えさせ、絶体絶命の窮地に立たされた日本を救い出したことは、非常に大きな功績の1つと言える。

文武両立を全うし、G大阪の優勝にも貢献

 一方、クラブレベルでは、G大阪、レッドブル・ザルツブルク(オーストリア)、神戸の3チームでプレー。G大阪の新人時代は、同志社大学に通いながらプロ生活を送った。高校を出てJリーガーになるのが一般的だった当時の日本サッカー界にあって、文武両立を最後まで全うしたのは、彼とG大阪ユースの後輩・橋本英郎(神戸)くらいしか見当たらない。

 このころ、宮本にインタビューしたことがあるが「サッカーと同じくらい勉強も大切。大学の仲間から得ることも多い」と、ごく普通の大学生的な感覚で話していた。Jリーグバブルが色濃く残っている時代に、しっかりと地に足を着けて行動できる若者はかなり珍しかった。宮本が10代のころから、あらゆるチームでキャプテンマークを巻いてきたのは、どんな時も沈着冷静で、物事を客観視できる力を持っていたからだろう。

 最後までもつれにもつれた05年のJ1で、G大阪を初タイトルに導いたことも特筆に値する。Jリーグ発足当初から下位に低迷していた同クラブにとって、この優勝がその後の目覚ましい飛躍の原動力になったのは間違いない。12月3日の最終節、対川崎フロンターレ戦で、宮本は自らヘディングシュートをたたき出し、チームを悲願のリーグ制覇に導いた。等々力競技場で号泣した姿は、今も多くのファンの脳裏に焼きついて離れない。本人にとっても忘れられない出来事だ。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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