オーバーエイジ・徳永悠平が関塚ジャパンにもたらすもの=マルチな能力と豊富な経験を持つ貴重な存在

元川悦子

攻守両面の仕事を最大限こなす

マルチな才能を持つOAの徳永(青)は、11日のニュージーランド戦で左サイドバックを務めた 【Getty Images】

 山崎亮平からパスを受けた扇原貴宏が左サイドの深い位置までえぐって折り返したボールをDFが大きくクリアした。この瞬間、ペナルティーエリア手前にポッカリと大きなスペースが生まれたのを、背番号2をつけるオーバーエイジ(OA)の左サイドバック・徳永悠平は見逃さなかった。次の瞬間、彼は思い切って右足でミドルシュートを放った。これがGKグリーソンを強襲。こぼれ球を杉本健勇が押し込んだ。手堅く守るニュージーランドを前半から攻めあぐね、最終的に1−1で引き分けるという後味の悪いゲームを演じた関塚ジャパンにとって、この1点は2週間後に迫ったロンドン五輪本番に向けての数少ない希望となった。

「左サイドをやる時は右足でミドルを打つイメージは常に持ってるんで、あの時もこぼれ球でしたけど、しっかり抑えて打つことを意識してました。自分は右利きなんで、左に入った時はどうしても中へ行くことが多くなる。後半頭にもワンツーからゴール前に入っていくシーンがありましたけど、中央へ出て行って何か仕事をするという持ち味が出せたのは良かったと思います」

 こう話す徳永が存在感を示したのは、この先制点のシーンだけではなかった。前半は右サイドバック・酒井宏樹、自分の前にいる永井謙佑との関係を考え、引いて守備のバランスを保つことを最優先に考えた。相手が思ったほど出てこなかったのもプラスに働き、彼が入った最終ラインは以前より落ち着きを増した印象だった。そして1対1の勝負にも負けなかった。象徴的だったのが後半13分、ニュージーランドの右サイドバック・トーマスが縦を突破してきた場面。徳永は出足が遅れたものの、迅速な対応を見せ、相手に仕事をさせずにゴールラインまで追い込んだ。5月のトゥーロン国際大会では、比嘉祐介や酒井高徳がオープンスペースを再三突破され、ゴール前を切り裂かれたが、今回はそういうケースはほぼなかった。「サイドの選手はやられないことが一番」という彼の強い自覚がよく表現されていたのだ。

 今回は準備期間がわずか3日しかなかったが、徳永は周囲とのスムーズな連携を図り、指揮官から求められた攻守両面の仕事を最大限こなした。これでもう1人のOA・吉田麻也が加われば、最終ラインの安定感はより一層、高まるだろう――そんな期待を抱かせてくれる彼の関塚ジャパンデビュー戦だった。

OAと一緒に戦った過去の経験を踏まえて

 ロンドン五輪に挑むU−23日本代表のOAに徳永悠平が抜てきされることが明らかになったのは6月中旬。吉田麻也の方は以前から有力視されていたが、彼の招集は少なからず驚きを持って受け止められた。それほどまでに関塚隆監督が徳永にこだわったのは、トゥーロン国際でズタズタにされた守備のテコ入れが急務な課題だったから。徳永なら両サイドバックにセンターバック、ボランチ、2列目までこなせる。しかも4月のザックジャパンの合宿に招集されている通り、A代表に近いレベルの選手である。18人という限られた選手枠を考えた時、彼のようなマルチな能力を持つ人間の存在は貴重だ。徳永にしても2004年アテネ五輪で1次リーグ敗退に終わった悔しい記憶が残っており、指揮官のオファーを断る理由はなかった。

 日本は1996年アトランタから5大会連続での五輪出場となるが、実際にOAを使ったのは2000年シドニーと04年アテネの2大会。シドニーの時はフィリップ・トルシエ監督がA代表と五輪代表を兼務し、同じコンセプトで戦っていたから、OAといえども違和感は全くなかった。未知なるチームに年長者が入るという意味では、アテネの時が今回に一番近いだろう。

 アテネでは小野伸二(清水エスパルス、当時フェイエノールト)と曽ヶ端準(鹿島アントラーズ)、高原直泰(清水、当時ハンブルガーSV)の3人が抜てきされたが、高原は肺動脈血栓塞栓症が再発。結局、小野と曽ヶ端が本大会を戦った。が、若いチームに溶け込む時間が足りず、チーム全体としての連動性を欠き、最終的に1次リーグ敗退を余儀なくされている。

「徳永が実際にアテネでOAと一緒に戦っているのは大きい」と関塚監督も語っていたが、彼自身も過去の経験からOAがどうあるべきかを思い描いたはずだ。ニュージーランド戦に向けた合宿が始まる前に「自分の方からチームに入っていくことが大事。五輪代表にはこれまで積み上げてきたものがあるんだし、新入生的な感覚で合わせていけば問題ないと思う」と話したのも、8年前を踏まえてのこと。あくまで今までの土台を尊重しつつ、足りない部分を埋め、プラスアルファをもたらすつもりで、徳永は関塚ジャパンに参戦したのである。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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