ティト・オーティズ物語:黄金時代篇――米スポーツ界のスターに
競技の枠を越え米スポーツ界のスターに上りつめたオーティズ 【(C) 2012 Zuffa. LLC.】
インターネットや一部の雑誌にはMMAに注目するものもあったが、団体は資金不足に苦しんでいた。しかし、そのようなことは、2000年4月14日に行なわれた試合には何の影響も及ぼさなかった。オーティズはシウバに3−0の判定で勝利。オーティズは自身を最後に倒した男―フランク・シャムロック―が返上したベルトを手にすることとなった。
■相手を倒すことでファンを楽しませたい
彗星のごとく現れた元レスリング選手がチャンピオンとなることで、MMA界は活性化した。というのも、彼が才能に恵まれていただけでなく、その金髪と“悪ガキ”的なパーソナリティが、コアなファンだけでなく、一般のスポーツファンや、女性や子供にもアピールできるものだったからだ。人々は格闘技もファイターも大好きだが、そのパーソナリティこそがもっともファンを魅了する要素であるのは間違いない。そして、モハメド・アリやハルク・ホーガンを崇拝するオーティズは、カリスマ的なパーソナリティを備えていた。
「ファンを楽しませる事が重要だと思った」
そう彼は2007年に語った。
「それが俺の仕事だ。俺がUFCに参戦した時から、UFCはエンターテインメントだった。もちろんファイトはファイトだが、そこにエンターテインメントもある。オクタゴンに入るとき、俺は自分の魂のすべてを捧げている。トレーニングに妥協はしないから、自分のやることには自信を持っている。常に100パーセントで戦っているし、相手を倒すことでファンを楽しませたい。最前席で観戦してくれている人も、テレビでペイ・パー・ビューを購入して観戦してくれている人も関係なくね。ティト・オーティズの試合はいつでも素晴らしいと感じてもらえればいいな」
オーティズは近藤有己相手に初防衛戦を成功させた2000年12月以降、のちにライトヘビー級と名前の変わる205ポンド級のトップに君臨し続けた。しかしそれには様々な側面からの助けがあり、2001年にUFCを買収したZuffaの協力も欠かせなかった。そしてオーティズのキャリアに一番の影響を及ぼしたのは、オーティズの元マネジャーであり、UFCの陣頭指揮をとったデイナ・ホワイトだった。
“マネジャー”デイナ・ホワイトとの出会い
ティトは本当にそんな人望の厚い人物であったし、初期のUFCを思い起こす時、その名前が必ず頭に浮かぶ存在となった。試合前のトラッシュトークや、試合中のグラウンド&パウンド、そして試合後に着用する対戦相手に対するメッセージが書かれたTシャツからも、彼の人柄が見て取れる。そして、エヴァン・タナー、エルヴィス・シノシック、そしてウラジミール・マティシェンコに対する3連勝を経て、UFC最大のスターとなった。
「彼は本当によくやってくれた」とデイナは語った。「タナーとの試合は彼にとって一番のプレッシャーだったと思う。あの試合は当時としては最大となる5000人もの大観衆の中で行った。そして、マンダレイ・ベイでの「UFC33」もすごいプレッシャーだったはずだ」
しかし、その二つよりも大きいプレッシャーが、間もなく彼に襲い掛かろうとしていた。彼にとって最大のプレッシャーは、UFCのパイオニアである、ケン・シャムロックとの対戦であり、オーティズにとっては、当時のMMA史上最大となる大観衆の前で、スポットライトを浴びる機会となった。
MMA史上最大となる大観衆の前での大一番
ケン・シャムロック戦は当時ラスベガスの一番の観客動員数を記録 【スポーツナビ】
「皆が僅差の試合になると予想していたし、ケンはタフだったし強かった」そう2003年オーティズは語った。「ただ、俺がこの試合に向けてどれだけ努力して成長したか、ケンを評価していた人たちは知らなかっただろう。そして「UFC40」を見たとき、人々はMMAの新たな側面を目撃した。
試合後、皆が『シャムロックを圧倒していたな』と言ってくれた。チャンプになりたいなら、それを勝ち取る必要がある。あの夜、ケンには王者になる資格はなかった。俺が彼以上に努力したからな」
ティト・オーティズは世界一だった。彼はライトヘビー級王者で、MMAの顔だった。そして彼は、競技の枠を越えて、スポーツ界全体のスターとなった初めての選手だった。しかし、王国も崩壊する時が迫っていた。ランディ・クートゥアと、チャック・リデルが虎視眈々と彼のベルトを狙っていた。
Text by Thomas Gerbasi
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