宮市亮は最終予選のジョーカーになり得るのか=ザックジャパンが手に入れた“飛び道具”
19歳で初キャップ、緊張と興奮のデビュー戦
アゼルバイジャン戦で代表デビューを飾った宮市。ザック監督の期待に応え、W杯最終予選メンバーにも選ばれた 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】
「ファーストインプレッションは絶対に大事。去年の清武(弘嗣)選手の代表デビューもすごかった。僕自身もボルトンで初めての練習試合でいい動きをして、次の試合に使ってもらった。代表に残るためには、結果を出さないといけないと思います」
試合前、こう語っていた宮市が見据えていたのは、もちろんゴールだった。ピッチに登場するやいなや、攻撃の舵(かじ)を取っていた本田圭佑に「裏に走るんでボールを出してほしい」と自ら要求する強心臓ぶりを見せる。オランダ、イングランドを渡り歩いてきた宮市にしてみれば、相手が誰だろうと意思疎通するのは当たり前。こうした振る舞いに「世界基準」が感じられた。
そこからは「どんな距離のスピードも自信あります」と言い切る100メートル10秒台の速さを前面に押し出す機会を虎視眈々(たんたん)とうかがった。最初のチャンスだった21分のドリブル突破は、相手DFを外に抜こうとした際に転倒。彼自身、「こけてしまったので悔いが残ります」と苦笑いしたものの、そんな失敗にめげず1対1の勝負に4、5回は挑んだ。28分には、岡崎慎司からペナルティーエリア左外でパスを受け、コースを狙ってシュートを放った。残念ながら相手GKに防がれ、「香川さんだったり世界の選手は、ああいうのを確実に決めてくる。自分はまだまだ」と反省したが、しっかり枠に飛ばすことは忘れなかった。
結局、約30分間プレーし、得点もアシストも記録できなかったが、最大の長所であるスピードを指揮官やチームメートに印象付けることは成功した。「1回ラインを割りそうなシーンがあったけど追いついて折り返した。やっぱり速いね。サイドに張らせて好きにやってもらうのも面白いかな」と内田篤人が言えば、中村憲剛も「亮のスピードは間違いなく日本の武器になる。あの速さを生かさない手はない。足元で受けなくても一発で斜めに走って裏を取ればゴールまで行っちゃうから。今回は足元で受けてドリブルが始まっていたんで、そういうシーンがあんまりなかったけど、これから増えていけば面白い」とうれしそうに語っていた。
「足が震えて、自分がどういう状況だったか分からないくらいだった」と宮市自身は初キャップの緊張と興奮でいっぱいいっぱいだったが、ボールを持つだけで周りに期待感を抱かせたことは間違いない。ザック監督もアジアカップ優勝メンバーの藤本淳吾や先に代表経験で上回る原口元気を外してまで、宮市を最終予選メンバーに抜てきした。新たに加わったジョーカーがW杯・ブラジル大会への重要な関門となる3連戦で何をするのか……。楽しみがまた1つ増えた。
従来の日本人アタッカー像を超越
そんな宮市の運命を変えたのが、中京大中京高校3年だった10年夏のアーセナル練習参加だった。日本人離れした速さとスキルの高さをアーセン・ベンゲル監督に認められ、入団が決定。高校卒業前の冬に欧州へ渡り、英国就労ビザの問題もあって、フェイエノールトに期限付き移籍することになる。
プレミアリーグよりレベル的に下がるオランダに新天地を見いだしたことは、彼にとって大きなプラスに働いた。11年2月のフィテッセ戦でいきなり公式戦デビューを飾り、2戦目のヘラクレス戦で初ゴール。10−11シーズンは最終的に12試合出場3得点を記録した。すさまじいスピードで相手守備陣を切り裂き、ゴールに突進する姿を目の当たりにした地元メディアも、「日本にこんな若者がいたのか」と大騒ぎになったほどだ。
11−12シーズン開幕前には就労ビザが下りてアーセナルに復帰するも、やはり世界トップクラスの壁は高かった。前半戦はリーグ戦で出番を得られず、今年1月には2度目の期限付き移籍でボルトンへ行くことになった。もともと明るくオープンな性格で、1年間の海外生活で英語力を含めたコミュニケーション力も飛躍的にアップした宮市は、すぐさまオーウェン・コイル監督に受け入れられ、2月のウィガン戦から12試合連続出場を果たす。今季チャンピオンズリーグで初優勝したチェルシーや44年ぶりのプレミア王者に輝いたマンチェスター・シティ相手に真っ向勝負に挑む堂々たる姿は、これまでの日本人アタッカー像を超越していた。
プレミアはオランダに比べるとフィジカル的にも日程的にもかなりタフ。スピード感や判断の速さ、攻守の切り替えなども数段上だ。ハイレベルな環境でもまれたことで、宮市は自信を深めた。ザック監督に初招集されたウズベキスタン戦の際にも、「プレミアで試合に出れば、プレッシャーの中でも動じない技術やメンタルだったり、すべての面で成長できる。今はサッカーが楽しくて仕方がない」と目を輝かせていた。
だが、シーズン終盤は右肩の負傷も災いして出場時間が短くなり、ラスト2試合は出番なしに終わった。ボルトンのチャンピオンシップ(2部)降格をベンチから見届ける羽目になり、本人も「フェイエノールトでもボルトンでも納得いく結果を出せなかった」と悔しさを口にするしかなかった。それでも再びザックジャパン入りしたことで、この不完全燃焼感を払拭(ふっしょく)する千載一遇のチャンスを与えられた。「今度こそ自分の力を出し切りたい」と強く思っていたはずだ。