猫ひろし問題で考えるアスリートの国籍と五輪=為末大インタビュー

高樹ミナ

アスリートの国籍変更、陸上界の現状について、為末大に話を聞いた 【スポーツナビ】

 ロンドン五輪男子マラソンのカンボジア代表に選ばれながら、国際陸上競技連盟(以下、国際陸連)の判断により、出場が認められなかったお笑いタレントの猫ひろし。今回起きた一連の騒動はくしくも、スポーツ界で増え続けるアスリートの国籍変更をクローズアップしたといえる。アスリートの国籍変更はなぜ問題視されるのか? ロンドン五輪を約3カ月後に控え、シドニー、アテネ、北京五輪の3大会に連続出場した“侍ハードラー”こと為末大に陸上界の現状を聞きつつ、アスリートの国籍変更について考えてみた。(取材日:5月1日)

国際陸連が出した警告

 国際陸連のジャッジは「ノー」だった。今年導入されたばかりの新ルールが、猫ひろしのケースに初めて適用されたのだ。選手の国籍に関するそのルールは、「国籍変更後1年未満の選手は、1年間の連続した居住実績がなければ国際大会に出場できない」というもの。特例による承認はあるものの、猫ひろしのケースは該当しなかった。

 陸上競技界では、かねてから選手の国籍変更が盛んに行われていた。とりわけ、オイルマネーの潤沢な中東諸国がケニアやエチオピアなどアフリカの発展途上国からレベルの高い選手を集め、巨額の報酬と国籍を与えて自国の代表にするケースが相次いでいた。現役アスリートとして長らく陸上界を見てきた為末が先月、twitterで「陸上選手はこの手の話に慣れてしまっている」と発言して注目されたのは、そうした事情があるからだ。

「選手の国籍変更は20年くらい前からありましたからね。陸上界の人間にとっては、またか、という感覚なんです。ただ、『倫理的にどうなの?』という気持ちは、僕ら選手の中にずっとあって、中東に国籍を変えたナイジェリア人選手がアジア記録を取ったりすることにフラストレーションがたまっていた。でも、それも一通り済んじゃった感じで、麻痺(まひ)しているというのが正直なところです」

 そんな中で為末が注目するのは、国際陸連がこの時期に具体的な規制の動きを見せたということだ。

「(選手の国籍変更は)アテネのときも北京の時もあったのに、なぜ今なのか。そっちのほうが興味深いですね。国際陸連の本当のターゲットは金メダルを取るような力のある選手が相次いで国籍を変えてしまうケース。だから、猫さんのような分かりやすい例を引き合いに、国や選手に警告を発したというのが僕の印象です。きっとこれからは国策で選手の国籍変更を進めるような国に対し、何かしらの形で規制をかけていく、そういう方向に向かう気がしています」

成功と愛国心の間で揺れる選手の葛藤

ケニアからカタールに国籍変更したサイフ・サイード・シャヒーン(右)。兄はケニア国籍のまま、両者は対決した 【Getty Images】

 金で買われた選手、国を捨てた裏切り者……。中東諸国に国籍を移したアフリカ人選手の多くはそう呼ばれ、時として激しい批判にさらされる。そんな選手の立場を察する時、選手としての成功と愛国心の間で揺れる複雑な思いを想像せずにいられない。

「僕もうんと考えたことがありますけど、自分の国への思いがある一方で、選手としては恵まれた練習環境で、いけるところまでいきたいという気持ちが当然あるでしょう。でも、その選択は難しい。以前、ある大会の3000メートル障害で、弟(編注:サイフ・サイード・シャヒーン)はカタールに国籍変更し、お兄ちゃん(同注:アブラハム・チェロノ)は愛国心を取ったケニア人兄弟が激突したんです。それを見て、これは究極だなと思いました」

 スタートラインに並んだよく似た顔の、片方はカタールのユニホーム、もう片方はケニアのユニホームを着た兄弟を見ながら、為末は英国人選手とこんな会話をしたそうだ。「自分ならどちらの道を選ぶか」。英国人の彼は「僕ら選手は英国とともにある」と愛国心を主張したという。だが、貧困国で家族がリッチになり、海外遠征費も合宿費の心配もいらないとなれば、決めかねてしまうだろうというのが為末の感想で、はっきりとした答えは出なかったという。

 では今、自身が多額の報酬と国籍を用意され、ロンドン五輪の出場枠に手が届くとしたら?

「うーん、何だかんだ言っても、僕は広島の田舎で育った古いタイプの人間ですからね。国籍が変わることには抵抗感があります。五輪に出ることと、日本人でいること、この2つを天秤にかけたら、日本人でいることのほうが僕にとっては重いですね」

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著者プロフィール

スポーツライター。千葉県出身。 アナウンサーからライターに転身。競馬、F1、プロ野球を経て、00年シドニー、04年アテネ、08年北京、10年バンクーバー冬季、16年リオ大会を取材。「16年東京五輪・パラリンピック招致委員会」在籍の経験も生かし、五輪・パラリンピックの意義と魅力を伝える。五輪競技は主に卓球、パラ競技は車いすテニス、陸上(主に義足種目)、トライアスロン等をカバー。執筆活動のほかTV、ラジオ、講演、シンポジウム等にも出演する。最新刊『転んでも、大丈夫』(臼井二美男著/ポプラ社)監修他。

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