唯一の日本人選手としてのクラブW杯=岡山一成、UAE2009大会を振り返る

宇都宮徹壱

2年前、UAEで開催されたクラブW杯に出場した唯一の日本人、岡山が当時の思い出を語ってくれた 【宇都宮徹壱】

 3大会ぶりに日本で開催されることとなったFIFAクラブワールドカップ(W杯)。日本のクラブが出場するのは、これまた3大会ぶりである。ただし2年前にUAE(アラブ首長国連邦)で開催された大会では、唯一の日本人選手が出場している。当時、浦項スティーラーズ(韓国)に所属していた、岡山一成(現コンサドーレ札幌)である。

 この大会での岡山は基本的にバックアップメンバーであったものの、準決勝の南米代表エストゥディアンテス戦では途中出場してベロンのマークにあたり、3位決定戦ではキャプテンマークを付けてスタメン出場を果たした。そして浦項は、北中米代表アトランテにPK戦の末に勝利し、見事世界3位に輝いている。当時の思い出を語ってもらうべく札幌の練習場を訪れると、岡山はいつもと変わらぬ笑顔で迎えてくれた。(インタビュアー:宇都宮徹壱 取材日:11月29日)

浦項入団を決意させた理由とは?

――岡山さんにとって09年という年は、普通では考えられないくらいキャリアの振幅が激しい年でした。前年の暮れに仙台との契約が更新されずに退団。翌年元日の天皇杯決勝では、古巣の柏を応援するべくゴール裏に駆け付けて「無職の岡山でーす!」と叫んで、柏サポーターから大喝采を浴びていました(笑)。ところがその年の12月には、浦項・スティーラーズの一員として、UAEのアブダビで開催されたクラブW杯に出場し、しかも世界3位にまで上り詰めた。今日はあらためて、その当時のお話を伺いたいと思うのですが……

 スポーツナビさんが初めてですよ、僕にクラブW杯の話で取材に来たのは(苦笑)。僕はね、メディアの人に声を大にして言いたい! 「2年前の大会を振り返ってください」とか「ピッチリポートをお願いしたいです」とか、そういう話が一切ない! ほんとに世間はヒドい! そこは書いておいて下さい(笑)。

――分かりました(苦笑)。まず浦項入団の経緯を伺いたいのですが、これは岡山さんの方からアプローチされたんでしょうか?

 そうですね。僕、横浜でブラジル料理のお店をやっているんですけど、そこに来たサッカー関係者の方から「浦項の監督がブラジル人で、アジア枠が1つ空いているので日本人のDFを探している」という話を聞いたんです。本当はJリーグに復帰して見返してやりたいと思っていたんで、一度断ったんです。
 でも、すぐに調べてみたら、そのチームはACL(AFCチャンピオンズリーグ)に出ることになっていて、しかも僕がいた川崎と(予選リーグで)同じブロックであることが分かったんです。なので、すぐに電話をかけ直しました。「すいません、さっきすごい生意気なこと言ったんですけど、僕はこのチームにどうしても行きたいです!」って(笑)。

――なるほど(笑)。ところが移籍のウインドーがすでに閉め切られていて、結局、川崎との予選リーグでの対戦も実現しなかったそうですね

 はい。最初はすごく落ち込みましたね。サッカーが嫌いになりかけたこともありました。それからしばらくして、契約抜きで練習させてもらいたいなと思って、浦項に聞いてみたんです。契約は先でもいいから練習をさせてくれと。そしたら向こうはOKなので、すぐ来てくれと。ゴールデンウイークが明けてから、韓国に飛びました。

――つまりテスト生みたいな身分だったわけですね。Kリーグのクラブはフィジカルトレーニングがかなり厳しいと聞いていますが、いかがでした?

 めちゃくちゃキツイんです、これが。でも、そのおかげで生き返りました。それまでアホみたいな生活していましたから(苦笑)。若手以下くらいに走らされて、しんどすぎて(日本に)帰りたいなと思ったこともありました。でも、夢があったから頑張れたんです。目標も夢もなく、すさんでいたのに比べれば、体力的なしんどさなんて全然しんどくなかったですね。

――夢というのは、浦項の一員となって、ACL決勝で川崎と対戦することですね?

 そうです。5月の予選リーグは間に合わなかったけれど、お互い勝ち上がれば決勝で当たります。浦項でのハードなトレーニングのおかげで、僕のフィジカルも戻ったし、(夏のウインドーで)正式に移籍も決まりました。

ACL優勝、そしてクラブW杯へ

――結局、川崎は準々決勝で名古屋に敗れ、その名古屋も準決勝でサウジアラビアのアルイテハドに敗れてしまいました。ご自身としても、浦項入団の際に抱いた夢がかなわず、さぞかし残念だったと思います

 すごく悲しかったです。ただ、決勝を国立でやるというのが、僕にとっては大きかったですね。その年の正月、スタンドにいて感じたのは「やっぱりこのピッチに立ちたいな」っていう思いでした。ACLの決勝で、国立のピッチに立てたらカッコいいじゃないですか。凱旋(がいせん)帰国ですよね。ただ僕は、ACLでは1試合も出ていなかったんです。韓国にはベストメンバー規定がないので、ACLがある週のKリーグは僕らが出るみたいな感じでしたから。

――なるほど、つまりターンオーバーをしていたと。ACLの時はずっとベンチだったわけですね?

 ずっと、ベンチから見ていて「勝ってくれよ!」って祈りながら。で、ゴールを決めたやつには、一番に駆け寄っていましたね。チームメートもベスト8くらいから「オカを国立に連れていこう」って言ってくれるようになりました。準決勝に勝って喜んでいる時に、みんなが「オカ、良かったな。国立に帰れるな!」って言われた時は、いい仲間を持ったなあって思いました。

――残念ながら、国立での決勝もベンチでしたね

 ベンチでした。それでも、今までで一番うれしかったです。国立で優勝したわけですから。1試合も出ていないのに涙が止まらなくて。それがチームスポーツの良いところじゃないですかね。しかも、アジアチャンピオンとしてメダルをもらえたんです。それは僕の一生の宝物です。

――その時に「クラブW杯に出場する」というイメージはありましたか?

 優勝してから、日テレさんからドキュメンタリー番組を撮りたいと言われて。そこから意識するようになりました。それまでACLがゴール、みたいな感覚でしたから。クラブW杯なんて、自分では想像がつかない世界でしたよ!

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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