大津祐樹、ドイツで目覚めたゴールへの貪欲さ=結果にこだわるドリブラーが関塚ジャパンの起爆剤に

元川悦子

関塚ジャパンのキーマンに名乗り

CKに走り込み、右足アウトサイドで先制点を決めた大津(右から3人目)。先発起用の期待に見事応えた 【写真は共同】

 扇原貴宏の右CKがファーサイド寄りに流れた。これをバーレーンのGKルトフッラーが反応するも、キャッチできずボールがこぼれた。大津祐樹はそのミスを見逃さず、猛然と走り込んみこぼれ球を右足アウトで合わせた。ネットが揺れた瞬間、派手なガッツポーズで喜びを爆発させた。
「セットプレーの時のGKの癖も確認していた部分だったし、予測というか、勘が見事にハマったいいゴールだったと思います」と本人も満足そうに語っていた。

 関塚ジャパンは6月のアジア2次予選・U−22クウェート戦がそうだったように、アウエーでの脆さを課題としていた。キッチリと勝ち切るためには早い時間帯の先制点が必要不可欠。22日のU−22バーレーン戦で、それをもたらした彼の働きは見逃せない。関塚隆監督も試合後、「大津の成長はすさまじい。当たりが激しくなったし、チームの起爆剤になってくれた」と心からうれしそうに話した。

 指揮官にとっても、大津の先発起用は1つのチャレンジだったに違いない。4−2−3−1の左MFのポジションには、昨年のアジア大会から不動のレギュラー・山崎亮平に加え、11月の2連戦のキャプテンに指名された永井謙佑もいた。原口元気がザックジャパンに招集されたからといって、し烈な競争に変わりはなかった。大津がそこに参戦しても、「ドイツで試合に出ていないし、コンディションも難しい。スタメンはないだろう」と大方のメディアは見ていた。

 だが、本人が「先発はチームに合流した時から言われていました」と打ち明けたように、関塚監督の腹は最初から決まっていた。右太もも裏を痛めた山崎も無理をすればプレーできる状態だったというが、この一戦はあえてベンチ外にし、急成長した大津に賭けたのだ。
 彼はその期待に存分に応えた。序盤から体を張り、攻守両面で闘争心を前面に押し出した。球際の強さ、対人プレーの激しさは、2次予選で落選したころとは比べものにならないほどだった。「足元の技術は日本人の方がありますけど、球際のところは海外の方が強い。ドイツでもしょっちゅう足にバチバチ来るんで、今日は特に何も感じなかった」と発言したが、その余裕はピッチ上から色濃くうかがえた。

 時間が経過するにつれて、同じ2列目の山田直輝や東慶悟とポジションを変えながら流動的にプレーする場面も多くなった。得意のタッチライン際のドリブル突破のみならず、中へ切り込んでのシュートなど多彩な役割も果たした。「大津君がいるとサイドからいいクロスが上がってくる」と大迫勇也も前向きなコメントを残したように、大津はチームに新たなバリエーションをもたらしたようだ。もちろん、ミスパスも皆無ではなかったが、71分間のプレーはまずまずだったと言える。大津が今回、関塚ジャパンのキーマンの1人に名乗りを上げたのは間違いない。

柏でポジションを失い、2次予選は招集されず

 水戸市で生まれ、鹿島アントラーズの下部組織ノルテジュニアユースから成立学園高校(東京)を経て柏レイソルへ入団。大津が一躍、知名度を上げたのは2009年だった。当時チームを率いていた高橋真一郎監督はプロ2年目の若武者を左アタッカーに抜てき。180センチと大柄ながら抜群のスピードとドリブルテクニックで見る者をくぎ付けにした。高橋監督の解任により、7月から後を引き継いだネルシーニョ監督も大津を起用し続け、このシーズンは33試合出場6ゴールと大活躍。2度目のJ2降格を余儀なくされた柏にあって、19歳の新星はチームの希望となった。

 同年12月、ロンドン五輪を目指すU−20代表の立ち上げに参加し、U−20韓国戦のメンバーにも選ばれ、「大津はロンドン五輪代表の柱になるだろう」と見る向きも強まった。ところが、この試合を左太もも肉離れで辞退したのが紆余(うよ)曲折の始まりだった。2010年は4月と7月に2度、右太もも肉離れを起こして戦線離脱。その間に田中順也が急成長し、思うように出場機会を得られなくなった。

 柏がJ1に復帰して迎えた2011年、大津は開幕戦の清水エスパルス戦で先発起用され、09年を越えるブレークの予感が漂った。しかし、得点に絡めないことから徐々に途中交代が増え、茨田陽生や兵藤昭弘にポジションを譲るようになる。ネルシーニョ監督が当初左サイドバックで起用していたジョルジ・ワグネルを4−4−2の左サイドで使い始めた7月以降はベンチにも入れなくなった。2トップはゴールを重ねる田中と北嶋秀朗がガッチリと固め、2列目もジョルジ・ワグネルとレアンドロ・ドミンゲスという2枚看板が入ったのだから、大津は控えに回らざるを得ない。こうしたクラブでの立場の変化が関塚ジャパンにも響き、2次予選は招集されず。本人も激しいショックを受けた。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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