マラドーナを中心に崩壊した1986年世代

対立を深めていったさまざまな障害

バティスタ(写真)はマラドーナを法廷で訴える意思を示した 【写真:ロイター/アフロ】

 第2の障害は、大苦戦の末にW杯・南アフリカ大会への出場を決めた直後に生じた。AFAがビラルドにマネジャー職を任せたのは、チームが結果を出せなかった際に自身をクビにし、彼に後任監督を任せるためではないか。そう理解したマラドーナは、さらにバティスタとブラウンから100パーセントの信頼を得られていないとも感じるようになり、アルゼンチン代表の慣例に反して、2人が率いるユースチームより下のカテゴリーのチームを練習試合の相手に選ぶようになる。この時点で既にマラドーナと2人、そしてビラルドとの間にコミュニケーションは存在しなくなった。

 3つ目の障害はアルゼンチン代表がW杯・南アフリカ大会へと出発する直前、マラドーナが同じく1986年世代の1人であるオスカル・ルジェーリのコーチ就任をAFAに要請した際に生じた。ルジェーリはグロンドーナとの関係が良好ではなかった上、サンロレンソの会長時代に彼を招へいして失敗したオスカル・サビノは、彼の代表スタッフ入りを拒否するようAFAに働きかけていた。

 マラドーナとルジェーリ、そして同じく1986年世代の1人としてルジェーリの代わりに代表スタッフ入りしたエクトル・エンリケは、グロンドーナに対して自分たちを擁護しなかったビラルドを痛烈に批判した。いずれにせよルジェーリは、アルゼンチン代表のベースキャンプ地となるプレトリアにて非公式にチームとの接触を繰り返していたという。

崩壊していく関係、もう後戻りはできない

 マラドーナと彼のスタッフがW杯後にAFAを去り、バティスタとブラウンが後任に就いたことで両者の対立はさらに際立っていった。マラドーナは自身が去った後に後任を引き受けた元チームメートの2人、そして自身とともにAFAを去らなかったビラルドを裏切り者とみなし、バティスタが代表監督を務めた1年弱の間に何度も彼らを批判するコメントを発してきた。とはいえ、彼が特定の代理人からわいろを受け取っていたという衝撃的な告発を行ったのは今回が初めてのことだ。

 マラドーナがこのコメントを発してすぐ、バティスタは彼を法廷で訴える意思を示した。これまで数々の批判や皮肉を我慢してきた彼をしても、今回の発言は許し難いものだったようだ。一方でブラウンは「心が痛む」と心境を明かし、ブエノスアイレスにおける政界の中心地であるプラサ・デ・マヨ(5月広場)にて証拠を提出するようマラドーナに要求した。

「わたしの在任中にプレーした選手は20人だ。もしわたしが彼の言うようなコミッションを受け取っていたのだとしたら、200人は招集していただろう」。常に庶民的なイメージを保ってきたバティスタは、そう言って1年半の間に108人の選手を招集したマラドーナとの違いを強調した。

 アルゼンチンのサッカーファンは、1986年に世界の頂点を極めた仲間たちの関係が崩壊していく様子を、ただぼうぜんと見つめている。1986年組は求めていたチャンスを与えられながら、それを生かすことができなかった。もう後戻りはできない。

<了>

(翻訳:工藤拓)

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著者プロフィール

アルゼンチン出身。1982年より記者として活動を始め、89年にブエノス・アイレス大学社会科学学部を卒業。99年には、バルセロナ大学でスポーツ社会学の博士号を取得した。著作に“El Negocio Del Futbol(フットボールビジネス)”、“Maradona - Rebelde Con Causa(マラドーナ、理由ある反抗)”、“El Deporte de Informar(情報伝達としてのスポーツ)”がある。ワールドカップは86年のメキシコ大会を皮切りに、以後すべての大会を取材。現在は、フリーのジャーナリストとして『スポーツナビ』のほか、独誌『キッカー』、アルゼンチン紙『ジョルナーダ』、デンマークのサッカー専門誌『ティップスブラーデット』、スウェーデン紙『アフトンブラーデット』、マドリーDPA(ドイツ通信社)、日本の『ワールドサッカーダイジェスト』などに寄稿

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