マラドーナを中心に崩壊した1986年世代

マラドーナが投下した爆弾

マラドーナの発言が、1986年組の対立問題を引き起こした 【写真:アフロ】

 アレハンドロ・サベーラの代表監督就任により落ち着きを取り戻したかのように思えたアルゼンチンサッカー界に、新たな火種がまかれた。チリとのワールドカップ(W杯)南米予選の初戦まで1カ月を切った先日、UAE(アラブ首長国連邦)から届いたディエゴ・マラドーナの発言が、1986年のメキシコW杯優勝メンバー間の対立問題を掘り起こしたのだ。

 2008年から2010年のW杯・南アフリカ大会までアルゼンチン代表を率いたマラドーナは、同大会の準々決勝でドイツに0−4と大敗した後に職を追われた。直後に後任となったセルヒオ・バティスタはそれまでU−20やU−23代表の監督を務めていたが、この時点で既にマラドーナとの関係はかなり悪化していた。

 ドバイにてアルゼンチンのテレビ『TyCスポーツ』の取材を受けたマラドーナは、バティスタが代表監督を務めた2010年半ばからコパ・アメリカ(南米選手権)までの間に「特定の選手を招集する引き換えにわいろを受け取っていた」と告発し、そこに現役時代はボカ・ジュニアーズとアルゼンチン代表で共にプレーした元選手の代理人カルロス・マカリスターが関与していたと語った。

 マラドーナのバティスタに対する一連の痛烈な批判はアルゼンチンサッカー界に爆弾を投下すると同時に、メキシコW杯の優勝メンバー間に存在する問題を再燃させた。その渦中には、当時監督を務めた現代表チームマネジャーのカルロス・ビラルドも含まれている。

チャンスを与えられた1986年世代だが

 すべては2008年、W杯予選での低迷を理由にアルフィオ・バシーレが代表監督を辞任した時に始まった。当時はあらゆるメディアが行ったアンケートで一番の人気を有したカルロス・ビアンチがバシーレの後任を務めるものと見られていた。だが、ビアンチとの不仲が有名なアルゼンチンサッカー協会(AFA)のフリオ・グロンドーナ会長と彼の2人の息子、フリオ(アルセナル会長)とウンベルト(代表チーム副ディレクター)は、以前からAFAの強化部における職を求めていた1986年世代にチャンスを与えることを選んだ。

 グロンドーナはマラドーナを代表監督、カルロス・ビラルドを各年代の代表チームを統括するマネジャーに任命し、ほかの2人の1986年大会優勝メンバー、セルヒオ・バティスタとホセ・ルイス・ブラウンにユース代表の指揮を任せた。そしてマラドーナはW杯1994年大会のチームメートである友人のアレハンドロ・マンクーソをアシスタントコーチとして迎え入れた。

 だが、マンクーソとビラルドの関係は以前から良くなかった。マンクーソは常にビラルドと対立関係にあるセサル・ルイス・メノッティのサッカーに対する信望心を口にしていたし、ビラルドはこのアシスタントコーチがマラドーナとの会話の妨げになると感じていた。

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著者プロフィール

アルゼンチン出身。1982年より記者として活動を始め、89年にブエノス・アイレス大学社会科学学部を卒業。99年には、バルセロナ大学でスポーツ社会学の博士号を取得した。著作に“El Negocio Del Futbol(フットボールビジネス)”、“Maradona - Rebelde Con Causa(マラドーナ、理由ある反抗)”、“El Deporte de Informar(情報伝達としてのスポーツ)”がある。ワールドカップは86年のメキシコ大会を皮切りに、以後すべての大会を取材。現在は、フリーのジャーナリストとして『スポーツナビ』のほか、独誌『キッカー』、アルゼンチン紙『ジョルナーダ』、デンマークのサッカー専門誌『ティップスブラーデット』、スウェーデン紙『アフトンブラーデット』、マドリーDPA(ドイツ通信社)、日本の『ワールドサッカーダイジェスト』などに寄稿

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