アーティスト日比野克彦氏が語る「サッカーのチカラ展」
アーティストであり、日本サッカー協会の理事でもある日比野氏。サッカーとアートとの親和性について語る 【宇都宮徹壱】
この画期的な企画展開催で尽力したのが、アーティストの日比野克彦氏だ。日本サッカー協会理事の肩書きを持つ日比野氏にとって、アートとサッカーは「同じ身体表現」であり、両者は分かち難い表現の発露となっている。まさに「サッカーとアートのコラボレーション」という今回の企画趣旨を体現するかのような存在だ。そんな日比野氏に、この「サッカーのチカラ展」の意義について語っていただくことになった。余談ながら聞き手である私にとり、日比野氏は母校である東京藝術大学サッカー部のおっかない――もとい、畏怖(いふ)すべき大先輩である。恐縮しきりで仕事場にお邪魔して、さっそくお話を伺うこととなった。(取材日:8月22日)
サッカーとアートに共通する「きた!」という瞬間
たとえば「芸術的なシュート」とか「芸術的なパス」とか。「え、今何が起こったの?」という感じの、一線を越えるようなプレーが飛び出すと、そういう修飾語が出てくるよね。ただしそれは、その人のDNA的なものから引き出された一瞬の出来事。選手は90分間プレーしていて、すべての時間をファンタジスタでいられるわけではない。その発露というものは一瞬なんだよね。その一瞬によって、ゲームが決まったり、その人の価値が決まったりする。だからこその「芸術的な」なんだよね。
――日比野さんのお仕事は、ドローイングが多いわけですが、やはりそういった一瞬のひらめきのような感覚ってあります?
僕の描き方って、最初から決めて描くのではなく、なりゆきでやっている。でも一本線を描くときに「あ、きた!」って瞬間があるのよ。
――何本もパスを出しているうちに、ものすごいキラーパスが通る感じですか?
そう、それ!「今日はなかなか決まらないな」と思っていても、「うわ、来た!」という瞬間がある。でもその前には、混沌(こんとん)とした時間とか、絵の具がぐちゃぐちゃになったパレットとか。紙が真っ白の段階では、その瞬間は出てこない。そのファンタジスタ的な一本の線が出てきた時が「作品になってくる」という感じかな。
もちろん、その「きた!」という感覚というのは、アーティスト自身にしか分からないんだよね。けれども(サッカーでは)、何万人という人たちがその過程を見守っているわけで、「きた!」という一瞬の喜びをみんなで共有できる。それこそが、スタジアムで観戦する醍醐味(だいごみ)なんだと思う。
サッカーも芸術も、氷山の一角の楽しみ方ではもったいない!
それはたぶん「作品の価値が分からない」というのがあるじゃないですか。「5万円が高いか安いか分からないから買わない」みたいな。でも、本当に気に入った作品だったら、自分の部屋に持って帰りたいと思う。そして、毎日それを見ながらいろんなことを考えたりとか、アーティストの心情を想像したりとか、いろんな想いをめぐらせることができるわけ。そこが美術館での鑑賞と違うところだよ。
――そのあたりの感覚を、アート鑑賞になじみのないサッカーファンに分かりやすく説明すると、どんな感じでしょうか?
たとえばJリーグの場合、結果だけを知りたければ、スポーツニュースの情報だけでいいわけじゃない? でも結果って、実はサッカーの一部でしかない。スタジアムに行くまでの過程とか、試合が始まる前の雰囲気とか、試合が終わってからの帰り道での余韻とか、それらを全部ひっくるめてのサッカーであり、サッカーを楽しむということだと思う。結果だけ見ればいいというのは、美術館で鑑賞するだけとか、もっと言えば図版を見て終わってしまうのと同じ感覚だよね。そうなるとサッカーの楽しみ方も、芸術の楽しみ方も、氷山の一角でしかない。本当は、90分の試合以外にも、あるいは額縁に飾られた絵以外にも、見るべきところや楽しむべきところはたくさんあるんだよね。