カレン・ロバート、新たなチャレンジを求めて=熊本退団からVVV移籍までの裏側
エリート街道からの離脱
VVV移籍に至る経緯と自らの心境を語ったカレン・ロバート 【了戒美子】
あらためてキャリアを振り返ってみると、カレンはサッカーエリート街道を何の躊躇(ちゅうちょ)もなく進んできた。市立船橋高では2年時に高校選手権、3年時には高円宮杯全日本ユース(U−18)選手権で優勝を経験。市立船橋高は当時、平山相太らを擁した国見高と高校サッカー界の双璧として並び立っていた。
04年にジュビロ磐田に入団。2年目にはリーグ戦31試合に出場し、13得点を挙げて新人王も獲得した。この年は日本代表としてワールドユース(現U−20ワールドカップ=W杯)でも中心選手として活躍を見せた。だが、この年以降、カレンは華々しい活躍から遠ざかり始める。06年、07年はリーグ戦で20試合以上に出場しているものの、北京五輪の代表メンバーからは外れた。08年以降はけがの影響もあって出場機会が激減し、10年にはシーズン半ばに磐田を退団。その後、J2熊本へ移籍を果たすが、18試合出場3得点にとどまっている。なだらかな下り坂を転げ落ちているかに見えなくもなかった。
「オレのサッカー人生って何の深みもない」
「ふと、自分がサッカーを辞めた後のことを想像してみたんですよね。で、そこからサッカー人生を振り返ることをしてみると、オレのサッカー人生って何の深みもないなって。むしろ浅すぎるなって思っちゃった。それなら苦しんでもいいから、サッカーやってるうちは深くしていきたいなと思った」
すると、結果を出せない自分に募る焦燥感が、かねてより持っていた海外への思いと結びついたのだという。
「漠然と、機会があれば海外に行きたいと若いころから思っていて。もちろん、最初はなんとくではあるけれど、思いはずっとあった。それで、磐田の時も海外に行きやすいように、(海外のクラブと)契約しやすいようにしていたし。もちろん、海外に行くだけで自分のサッカー人生が深くなるわけじゃないけど、行って得るものは多いかなって。単純に自分のためですね」
ただこれまでは、海外移籍を望んではいるものの、遠いもののように思っていた。多くの選手は日本代表で結果を残し、W杯にたどり着いてようやく海外移籍を実現させる。彼の中で、海外移籍とはそういうものだった。
「まず、日本で相当活躍しないといけないし、大変なものだって思っていた。ハードルは高いし、中途半端な選手には届かないものだと。でも、そう思っている選手って多いというか、ほとんどなんじゃないかな? だから、今回いろいろな兼ね合いがあって、この移籍が実現したのは本当にありがたい」
「ありがたい」と、カレンはしみじみと口にする。ただ、この海外移籍を実現させるために、最初の一歩を踏み出したのは彼自身だった。もともとのエリートも、不遇の時代を経験して焦りが募っていた。だから、自分で動いた。これでサッカー人生を終わらせたくない――。追い込まれ、切羽詰まっていたのだ。