今のままではいけない――田嶋氏FIFA理事落選の意味

ミカミカンタ

必要なのは正当な評価と人材育成、適正な人材配置

現在のJFAは日本サッカーの未来を担う人材を育てられる組織になっているのだろうか 【Getty Images】

 そろそろ人事異動の季節だが、日本協会は適材適所の人事を果たして行えるものだろうか? そもそも人材が決定的に育っていない。田嶋は選挙前、メディアに「自分にはほかの候補者にはない、プレーヤーだった強みがある」という意味のことを語っているが、それで言うなら、田嶋はプレーヤーとしても指導者としても世界に対して大きな成果を何ひとつ残しておらず、今回の選挙においても同じ結果をたどってしまったといえる。プラティニほどのプレーヤーだったならいざ知らず、田嶋が自分の強みとしたプレーヤー経験は必要とされなかった。そのような者を副会長にいただいて世界に打って出なければならない日本協会の人材難は、元はといえば川淵が独断で現在につながる有用な人材を次々と切り捨ててきた上、それに代わる人材を育ててこなかったことによる。そして田嶋や先の日本協会役員改選で常務理事(事務局長兼任)に格上げされた田中道博のような、自分にとって都合の良いイエスマンか、もしくは何もせず、何も言わない者だけを重用している。そのツケが今になってやってきているというだけの話だ。そうやって日本協会内で出世をしてきた人間は当然ながら川淵と同じやり方をするだろう。負の連鎖はそうして連綿と続くことになる。

 小倉は日本協会公式サイト1月1日付けの会長コラム『今日もサッカー日和』の中で「日本サッカーのトップレベルの強化、育成、指導者や審判員などの人材養成、サッカーの普及、スポーツ振興などなど、取り組むべきことは枚挙にいとまがありません」と述べているが、そこでは協会内の人材養成については触れられていない。
 サッカーでは次世代、次々世代を担う人材育成の重要性を高らかにうたいながら、そのサッカーを扱う当事者たちが、自分たちの所属する組織ではまるでサッカー的ではないことをやっている。
 日本人プレーヤーにいくらいい人材がいて頑張ったとしても、その方向性や予算、人材の配置、代表の体制、スケジュールなど、重要なことを決めるのが誰なのかということを考えれば、現在の状況は決して楽観視できるものではない。
 今回の田嶋の落選という結果が如実にそれを表している。人材の効果的活用と配置、そのタスクとミッション、それらが適正に行われているとはどう見ても思えない。

 田嶋の落選について「自分たちのやりたいことを方向付けする力が一気にスローダウンする」とコメントしたとされる小倉の言うように、東地区からFIFA理事が消えた影響は計り知れない。世界のサッカーシーンで発言力が低下するのはもちろん、FIFAからの水面下の情報も途絶えてしまう。得票数が田嶋と1票しか違わず、AFC副会長のいすを確保した中国は今後、その経済力を背景にアジア内で力を増すだろう。それによってこの先、日本のワールドカップ開催はますます難しくなるだろうし、クラブワールドカップもこの先はどうなるか分からない。二度と日本で開催されない可能性だってある。

名誉会長・川淵三郎にJFAハウスからの退場を

 いつの時代でも一見無謀とも思えるチャレンジを繰り返し、大きな傷を追いながらも数少ないチャンスをモノにして時代を切り拓いてきたのは若者たちだ。そして、そんな彼らを許容し、導き、道筋を示唆してきた知識も経験も豊富な大人たちがいる。ベテランと若手の融合はいつの時代だってチーム=組織の課題ではないか。若者はベテランの背中を見ながらいつかは大人になっていく。
 しかしながら、取材を進めていくと、現在の日本協会内の若いスタッフには不満が鬱屈(うっくつ)し、それが力とはならずにやる気をそがれている者が大勢いるという現状をあちこちから耳にした。彼らは日本サッカーに対して熱い情熱を持ち、己の全人生を賭す覚悟でJFAハウスのドアを開いたのではなかったか。しかし、その中では出世争いやパワハラ、セクハラまがいの行為がまかり通り、良からぬことのもみ消しに奔走しては恩を売るというやり方をする人間が実際に出世しているのだとしたら、それをはたで見ている若い彼らの情熱はどこへ向かうというのか。
 絶望はしない。決して絶望はしないけれど、夢と希望は実際のところはるか遠くにかすんでしまっているのではないか?
 日本協会の若いスタッフや地方協会の人たちにはその夢と希望がはっきりと見えているのだろうか? 残念ながらサッカーメディア界に身を置くわたしにはそれが見えない。
 <2005年宣言>で川淵は2050年までにもう一度ワールドカップを、今度は単独で開催し、その大会で優勝すると文字通りブチ上げた。
 しかし、その道筋を足元から崩壊させようとしているのは誰なのか?
2050年には当人たちはすでにこの世に存在していないから何をやっても何を言っても平気なのかもしれないが、そのころの選手たちやコーチングスタッフ、協会役員やスタッフたちはたまったものではないだろう。もちろんサッカーファンにとってもだ。

 今回のFIFA理事落選という事実は、結果が出たからそれでおしまいと簡単に片付けていい種類のものではない。少なくとも日本のサッカー界においてプレーヤー同様、世界に通用する“フットボール政治・外交”に適した人材発掘と養成が恒常的に必要なのだ。それと同時にJFAハウスを去らざるを得なかった人材の見直しも当然あっていい。なにもサッカー界の人材を現在のJFAハウスにいる住人にだけ求める必要はない。そしてそれらを含めたあらゆる施策について的確に判断できるシステム、人材の配置・選出がどうしても必要ではないか。そうでなければ1年半後の日本協会役員改選を経た4年後のAFC役員改選もまた同じ結果となってしまうだろう。日本はどんどん世界のサッカー界で発言権を失っていくことになる。そういった状況を打破し、改革に向かう道は今のところたったひとつしかない。別の言い方をするならたったひとつだけだ。今なお陰で実権を握る名誉会長・川淵三郎にJFAハウスから退場願うことである。
 川淵が日本サッカー界に残した実績は確かに大きなものだ。だが、もういい。勲章ももらったし、十分に世間からの称賛も浴びたではないか。それとて川淵がひとりで成し遂げたものではないのだが、名誉職となった今もなお陰で実権を握って放すまいとするその姿は醜悪を通り越して滑稽(こっけい)ですらある。日本のサッカー界はもう未来に向かって次のステップを踏み出さなければならない時期に来ているのだ。日本サッカー界が代表チームの実力だけではなく、名実ともにアジアや世界に影響力をもたらすためにどうしても越えなければならない壁は外にだけあるのではない。

 スタートの発想を過去や現在に置くのではなく、それらから学び、生かし、その上で理想の未来を発想の原点としなければいつまで経っても日本サッカー界の堂々巡りは続く。(文中敬称略)

<了>

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著者プロフィール

1959年、北海道出身。フリーライター。出版社で編集員をしたあと、さまざまな職業を経て現職に。インタビュー物を得意とし、緻密な取材を重ねて、なんとか目に見える向こう側を見ようとする。仕事のフィールドはサッカーから省庁、ラーメン屋まで、著名人から達人、無名人まで多岐にわたる。1968年メキシコオリンピックの直後にサッカーボールを買ってもらい、サッカー一直線の人生になるかと思われたが、当時の北海道の片田舎には少年向け指導者が存在せず、遊びのまま終わる。『サッカー批評』(双葉社)『フットボールサミット』(カンゼン)などに寄稿。昨年12月に発売された『サッカー批評ISSUE49』では会長交代後、長い間沈黙を守っていた犬飼基昭前JFA会長の独占インタビューを掲載し、これまでのサッカーメディアのタブーを打ち破った過激なその内容はサッカー関係者、ファンの間に今なお大きな反響を呼んでいる。一方で、地道に地方クラブを足で回って取材した書籍を執筆中。週末にはフットサルを楽しむ若干メタボ気味の“ガラスの中年”。Twitterアカウントはknt_m

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