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李忠成、アジアカップのラッキーボーイを目指して

在日の希望となるために

さまざまな苦労、悔しさを経て、李は自らの手で日本代表の座をつかんだ。このチャンスを生かせるか
さまざまな苦労、悔しさを経て、李は自らの手で日本代表の座をつかんだ。このチャンスを生かせるか【写真:アフロ】

 GK川島永嗣が退場するアクシデントが飛び出すなど、試合が大混乱に陥る中、何とか勝ち点3をゲットしたシリア戦。だが、アルベルト・ザッケローニ監督が「これだけチャンスがあったのだから、早く試合を決定付けないといけなかった」と指摘した通り、日本代表は決定力に課題が残された。


「相手のヘディングが強くて、前田(遼一)さんもすごくやりづらそうだった。自分が出ていたら、前線で起点になりながら裏に抜けてゴールに直結するプレーを出したかったですけどね……。こういう大会はラッキーボーイが出てくるかどうかで優勝できるかが決まる。自分がそういう存在になりたい」と意欲満々に話す李忠成は、最後の最後までチャンスを待ち続けていた。

 残念ながら出番は巡ってこなかったものの、ゴールという結果に強くこだわり続ける姿勢は常に変わらない。練習でも彼のキレとシュートの迫力が群を抜いて高いだけに、李が今後のキーマンになる可能性は大いにあるだろう。


 1985年、在日韓国人4世として東京に生まれた李忠成(イ・チュンソン)は、元サッカー選手だった父親の影響を受けながらサッカーにまい進した。横河電機(現横河武蔵野FC)ジュニアユースからFC東京U−18へ進み、2004年には梶山陽平らとともにトップ昇格。順調なキャリアを歩む中、同年にはU−19韓国代表候補入りした。だが、韓国語でのコミュニケーションの問題もあり、出場機会を得られないまま終わった。


 本人の中には住み慣れた日本への愛着があり、日本代表へのあこがれも少なからず芽生えていたようだ。そして柏レイソル移籍後の06年、日本国籍取得を決断する。当時、北京五輪を目指すU−22日本代表を率いていた反町康治監督(現湘南ベルマーレ監督)の勧めも李自身の心を動かしたという。


「在日韓国・朝鮮人、在日アメリカ人の方々とか、日本にはいろんな人がいると思うんです。彼らの可能性を自分が日本代表になることで見せたかった。『李』という名前で出ても日本代表で活躍できること、希望を見せられることをゴールという結果で示したかったんです。在日韓国人だった自分が日本国籍を取得して戦うことには賛否両論もあって、僕自身、傷ついたこともありますけど、やっぱり日本代表は僕のあこがれでしたから」と本人は複雑な胸中を打ち明ける。

悔しさの先にあったもの

 07年に『日本人・李忠成(り・ただなり)』となった彼は、北京五輪アジア最終予選で攻撃陣をけん引。4回連続の本大会出場権獲得に大きく貢献した。ところが、満を持して挑んだ北京五輪本番はまさかの3戦全敗。チームも李自身も持てる力の半分も出せないまま、屈辱の帰国を強いられた。


 この悔しさを胸にJリーグでの再起を誓ったが、所属クラブの柏でも予期せぬ苦境が待っていた。08年はわずか4ゴールに終わり、09年はチームの不振とともに彼自身も低迷。高橋真一郎監督が更迭され、ネルシーニョ監督が就任した夏ごろにはメンバーにさえ入れなくなった。そこで移籍期限ギリギリの8月末、サンフレッチェ広島に新天地を求める道を選択したが、絶対的エース佐藤寿人という高い壁を超えるのは容易ではなかった。2010年を迎えても状況は好転せず、ベンチを温める日々が続く。多くのファンが「李忠成」の名前を忘れかけていた。


 そんなさなかの10年9月、佐藤が右肩脱臼の重症を負った。ペトロヴィッチ監督は代役に李を指名。ついに待ち続けたスタメンの好機が訪れた。「今しかないって気持ちだった」という彼は、9月18日のヴィッセル神戸戦からリーグ戦5試合で6ゴールをマーク。シーズン3分の1の先発出場で通算11得点という驚異的な数字をたたき出し、11年アジアカップの予備登録メンバー入りを果たす。


 ちょうど同じころ、同じポジションのライバルと目された森本貴幸が左ひざ手術を受け、アジアカップに出場できないことが判明。ザッケローニ監督は勢いに乗るこの男に目をつけた。12月下旬のメンバー発表会見で「李は自分の力で代表の座をもぎ取った」と自ら語るほど、イタリア人指揮官は多大なる期待を寄せた。

「レイソルでベンチ外だったこともあるし、サンフレッチェでもそうだった。悔しさは常に感じていたし、『自分は絶対にできる』『オレは終わっていない』って思いでサッカーをやっていました。それで夢だったA代表に手が届いたけど、入ったから満足ではない。点を取ってアピールすることしか、今の自分にはないと思っています」と李は語気を強める。

元川悦子
元川悦子

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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