柏木陽介、悲願だった代表復帰

元川悦子

世界に飛び出していく当時のチームメートたち

イエメン戦で国際Aマッチデビューを飾った柏木。今回、アジアカップのメンバーに選ばれた 【写真:澤田仁典/アフロ】

 2010年12月24日。アルベルト・ザッケローニ監督の記者会見に先駆けて配られた、AFCアジアカップ2011(カタール)の日本代表メンバー23人のリストの中に、1つのサプライズがあった。オシムジャパン時代からの常連である中村憲剛(川崎)の名前が消えていたのである。彼と同じようにトップ下とボランチの両方を担える存在として抜てきされたのは、10代のころから“次世代のファンタジスタ”として脚光を浴びた柏木陽介(浦和)。「自分はどこで使われるか分からへんし、やらしてもらえるところで一生懸命やるだけ」と意欲的に語った23歳のMFにとって、ザッケローニジャパン入りはまさに悲願だった。

 柏木が最初にA代表に招集されたのは07年4月。オシムジャパンが発足して1年もたたないころである。当時、彼は吉田靖監督(現日本サッカー協会育成担当副技術委員長)率いるユース代表の一員としてカナダで行われるU−20ワールドカップ(W杯)に挑もうとしていた。いわゆる“調子乗り世代”と称される当時のメンバーには、今をときめく香川真司(ドルトムント)を筆頭に、内田篤人(シャルケ)、槙野智章(ケルン)ら現海外組がズラリと並んでいた。このチームで絶対的司令塔だった柏木は、1学年上の梅崎司(浦和)に続いてA代表入りを果たした。それほど評価が高かったのだ。

 ところが、足掛け4年がたった今、仲間たちは次々と世界レベルの舞台へ駆け上がっていった。柏木自身も07年秋の北京五輪アジア最終予選で救世主となり、昨年1月には若手中心で構成されたアジアカップ最終予選のイエメン戦で念願の国際Aマッチデビューを飾るなど、着実に成長を遂げている。だが、周囲の成長スピードが著しく速かったために、結果的に追い越される格好となってしまった。

「同世代のメンバーとは2年くらい一緒にやっていないけど、みんなすごく成長している。話す内容も変わったし、プレーも含めてすべてが違う。今は追いつくのに必死。特に、真司は前へ出ていってゴールする意識が人一倍強くなった。もともとうまかったけど、得点への鋭さが加わった感じ。ヨーロッパでも点を取ってるし、代表の練習試合1つでも結果を出してる。オレはまだまだやね」と彼は冷静に自己分析をする。

新天地で苦しんだ2010年シーズン

 謙虚な発言が出るのも、新天地・浦和でのパフォーマンスに納得がいっていないからだろう。ユース時代から7年間所属した広島を離れ、さらなる飛躍を期してJ屈指のビッグクラブへ移籍した2010年シーズンは、自分らしいプレーを出し切れずに苦しんだ。開幕当初はトップ下を任されていたが、思い通りに得点に絡めず、戸惑いの日々を余儀なくされたのだ。

 プレーに積極性が生まれたのは、阿部勇樹がレスターに移籍した夏以降。ボランチで起用されるようになってからだ。前線に飛び込む鋭さも戻り、得点に絡む回数も確実に増えた。それでも、シーズン通算4ゴールというのは、広島ラストシーズンとなった2009年のわずか半分。加えて、古巣より順位が下というのは悔しさひとしおだった。

「今年はできないことばかりで全然ダメ。結果も出なくてサポーターにホント申し訳ない。自分がまともにやれたのは守備くらい。ロビー(ポンテ)みたいな素晴らしい選手と一緒にプレーできたし、複数のポジションをやって幅は広がったとは思うけど、やっぱり改善することだらけ」と本人もリーグ戦終了後にしんみり語っていたほどだ。

 故に、アジアカップのメンバー入りは、彼にとっても少なからず驚きだったに違いない。ザッケローニ監督は中盤の前も後ろもこなせる若手を、どうしてもカタールへ連れていきたかったのだろう。そこで柏木に白羽の矢を立てた。イタリア人指揮官のお眼鏡にかなったというわけだ。本人としても、この千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。12月29日の合流初日には「ここに残っていかないといけないという気持ちは、1年前に参加した前回より強いものがある」と語気を強めた。

 イエメン戦での柏木は中盤でのリーダー役をきっちり務めた。10代のころのように「自分が自分が」という王様タイプのプレーをするのではなく、黒子に徹する仕事を随所に見せていた。けれども、得点に直結する仕事が少なく、岡田武史前監督の心を揺るがすだけのインパクトを残せなかったのも事実だ。当時のMF陣は中村俊輔(横浜FM)や遠藤保仁(G大阪)らベテラン選手が集まる最激戦区。彼のW杯・南アフリカ大会行きはかなわなかった。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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