バイロン・モレノの終着駅
そもそも、国際試合でイタリアが審判に文句を言う資格はないのかもしれないが、あの試合に関しては収まりがつかなかった。02年W杯の決勝ラウンド1回戦、イタリアは開催国の韓国に敗れている。モレノ主審は、ダミアン・トンマージの決定機を存在しないオフサイドの判定で無効にし、フランチェスコ・トッティには値しない2枚目のイエローカードを提示し、韓国にPKを与えた。ただ、イタリア人にとって受け入れがたかったのは、こうした判定がエクアドル人のレフェリーによってなされたことだった。
イタリア側の言い分によれば、主審は韓国人選手とフレンドリーに接する一方で、イタリア人選手にはいっさいの説明もなく、数々の判定ミスのあげくに、セリエAの弱小クラブ(ペルージャ)に所属していたアン・ジョンファンが決勝のゴールデンゴールを決めた。イタリア側は試合の不当性を主張、FIFA(国際サッカー連盟)は調査を開始した。しかし、結果はシロだった。何人かのモレノを支持する意見があり、イタリア人のジャーナリストの中にも、審判のせいではなく、アズーリ(イタリア代表の愛称)が延長戦にもつれる前に勝負をつけられたはずだから自業自得だという者もいた。
ところが、モレノの態度はまったく違っていた。試合翌日の記者会見に現れた彼は、「昨晩はよく眠れましたか?」という(もちろんイタリア人記者からの)最初の質問に対して、「もちろん、ぐっすり眠れた。わたしは昨日のレフェリングには非常に満足しているし、次のドイツ大会にも選出されることを期待している」とコメント。この会見でのモレノの態度は、彼をイタリアで“公衆の敵”にした。
「終盤にクリスティアン・ビエリが1対1のチャンスを外したが、それは、わたしの責任ではない。あなた方が大会を去ることになったのも、わたしのせいではない」
モレノは、FIFAのテストでいかに自分が好成績だったかも強調していた。
さらに、後にチリのテレビ番組に出演した時、モレノはイタリア人に石を投げつけるような発言をした。
「ムッソリーニがイタリアを支配していた時、彼は選手たちに対して、もしW杯(1938年フランス大会)で負けたら国には戻ってこれないぞと言っています(イタリアは優勝している)。つまり、イタリア人は負けてもフェアプレーをするという精神がないのです」
また、モレノはイタリアの番組にも出演している。“アンチ・ヒーロー”として扱われることを知った上で、出演料を得るためにすべてのオファーを受け入れた。イタリアの番組では冷静な発言をしている。「ミスもゲームの一部」と言い、トンマージのオフサイドに関しては「副審がフラッグを振っていた」(これは事実)を強調。しかし、買収疑惑に関しては否定し、W杯直後に購入したメルセデス・ベンツの請求書まで持参して、どうやってその高級車を買ったかまで説明した。
出場停止処分から復帰後3試合目の03年5月、モレノはデポルティボ・キトの選手を3人も退場処分にする。エクアドル協会にとって、モレノを引退させるには十分だった。サッカー界にとどまるため、モレノは“メディアマン”になるしかなかった。テレビやラジオの解説者になっているのだ。一方、この時期に彼は息子を心臓の病で亡くしてしまう。3回もの高額な手術を行ったかいもなく、3歳で天国へ旅立った。6年間で2度の離婚、さらにレンタカーで事故を起こすなど、不幸な出来事が続いた。
しかし、ニューヨークでモレノが逮捕されたニュースには、エクアドル中が驚いた。モレノの友人たちも、まったく予想していなかったようだ。まさか、6キロものヘロインを密輸していたとは。逮捕は9月21日だったが、米国への入国は数カ月で5回目だった。少なくとも数年、モレノは米国の監獄で過ごすことになるだろう。イタリアでは、天罰が下ったと思っている人も少なくないようだ。
<了>
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