アルゼンチン代表再生への道は原点回帰か=真価の問われるバティスタ監督

暫定監督からの昇格

バティスタは晴れて正式にアルゼンチン代表監督に就任した 【写真:ロイター/アフロ】

 セルヒオ・バティスタが2014年ワールドカップ(W杯)・ブラジル大会までアルゼンチン代表を率いることが正式に決定した。これでようやく、ボールポゼッションを重視し、戦術的にゲームを支配するテクニカルなサッカーへの回帰という、重要な目標に腰を据えて着手することができる。試行錯誤を繰り返してきた近年の“セレステ・イ・ブランコ”(水色と白=アルゼンチン代表の愛称)は、もう24年も世界タイトルから遠ざかっている。コパ・アメリカ(南米選手権)ですら、もう17年も優勝していない。

 暫定監督の昇格にあたり、一部の協会幹部や同僚からは、必要な手続きを踏んでいないと反対意見が出たことは事実だ。バティスタは選手たち――特に世界最高の選手と言われるリオネル・メッシや、AFA(アルゼンチンサッカー協会)会長のフリオ・グロンドーナと良好な関係を築いており、これが決定に影響を及ぼしたと見られる。また、08年の北京五輪では代表チームを指揮し、金メダルを獲得した実績もある。チームの雰囲気作りがうまい監督と言えるだろう。だが、1994年から01年までユース代表監督を務め、ワールドユース(現U−20W杯)を3度制するなど数々の成功を収めたホセ・ペケルマンほどの結果は残していない。

 AFA理事会によって任命された委員会のメンバーは11月1日、候補者の中からバティスタの正式就任を決めた。この決断がグロンドーナの意向に沿ったものであることは明らかだろう。協会会長はアルゼンチンサッカー界で一番の権力者であり、11年に8回目の任期を終えるまで、実に32年間も頂点に君臨しているのだ。W杯・南アフリカ大会後から暫定監督として指揮を執ってきたバティスタは、親善試合で2勝1敗の成績を収めている(ダブリンでのアイルランド戦に1−0、ブエノスアイレスでのスペイン戦に4−1で勝利。埼玉での日本戦には0−1で敗れた)。世界王者のスペインに快勝したこともあり、続投するに足りる結果だと言える。

監督決定の影で……

 現役時代、バティスタはエレガンスを備えたセントラルMFだった。86年のW杯・メキシコ大会では前アルゼンチン代表監督のディエゴ・マラドーナらとワールドチャンピオンに輝き、90年大会でもファイナリストとなった(今では、マラドーナは天敵の1人となっているが……)。クラブでは、アルヘンティノス・ジュニアーズで85年にコパ・リベルタドーレスを制している。

 バティスタはサッカー一家の出である。すでにこの世を去った父親のホセは、若きタレントの発掘を行っていた。クラブ・パルケ・デ・ブエノスアイレスの創設者の1人で、カルロス・テベス、フェルナンド・ガゴ、エステバン・カンビアッソ、ファン・ロマン・リケルメ、フアン・パブロ・ソリンといった選手を輩出している。かつてのフェルナンド・レドンドもこのクラブの出身だ。また兄弟のフェルナンドもプロのサッカー選手だった。

 現役を退いた後、バティスタはアルゼンチン2部や1部のクラブ監督を歴任。07年からはアルゼンチン代表でユース代表や五輪代表監督を務め、86年W杯を共に戦ったチームメートと一緒に働いてきた。メキシコ大会のドイツ戦でゴールを決めたDFのホセ・ルイス・ブラウンは現在もアシスタント・コーチを務めている。またここに来て、ガブリエル・バティストゥータの代表スタッフ入りという話も浮上してきた。

 グロンドーナが暫定監督の続投を決断するにあたって拠りどころとしたのは、バティスタが選手たちとの間で奏でるハーモニーかもしれない。チーム作りにおいて、周囲の人たちといざこざを起こすことはほとんどないからだ。だが、バティスタが今後、ゼネラル・マネジャー(GM)のカルロス・ビラルドとどのように付き合っていくのかは不透明である。個人的に両者は良好な関係を築いているが、ビラルドはほかの候補者を考えていた節があるからだ。

 もともと代表監督決定のプロセスにおいては、ビラルドが候補を3、4人に絞り、その中から委員会のメンバーが1人に決めることになっていた。候補者の名前は最後まで表に出ることはなく、バティスタに決まった。だが実は、ビラルドがエストゥディアンテスを率いるアレハンドロ・サベージャと、ラシン・クラブ監督のミゲル・ルッソを気に入っていたことは周知の事実である。

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著者プロフィール

アルゼンチン出身。1982年より記者として活動を始め、89年にブエノス・アイレス大学社会科学学部を卒業。99年には、バルセロナ大学でスポーツ社会学の博士号を取得した。著作に“El Negocio Del Futbol(フットボールビジネス)”、“Maradona - Rebelde Con Causa(マラドーナ、理由ある反抗)”、“El Deporte de Informar(情報伝達としてのスポーツ)”がある。ワールドカップは86年のメキシコ大会を皮切りに、以後すべての大会を取材。現在は、フリーのジャーナリストとして『スポーツナビ』のほか、独誌『キッカー』、アルゼンチン紙『ジョルナーダ』、デンマークのサッカー専門誌『ティップスブラーデット』、スウェーデン紙『アフトンブラーデット』、マドリーDPA(ドイツ通信社)、日本の『ワールドサッカーダイジェスト』などに寄稿

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