女子ジャンプの最前線で活躍する日本人女性=FISコーディネーター 吉田千賀氏インタビュー

小林幸帆

ジャンプ界の有名人「チカ・ヨシダ」

国際スキー連盟の女子ジャンプのコンチネンタルカップでコーディネーターを務める吉田千賀さん 【小林幸帆】

 2010年8月28〜29日、長野五輪のスキージャンプの舞台となった白馬ジャンプ台(長野県)で、サマージャンプのグランプリ第6戦・第7戦である白馬大会が開催された。このグランプリは8月8日の開幕戦(ヒンターツァーテン/ドイツ)から10月3日の最終戦(クリンゲンタール/ドイツ)まで、6カ国を舞台に繰り広げられるシリーズで、28日に行われた第6戦では、バンクーバー五輪銀メダリストのアダム・マリッシュ(ポーランド)と並びグランプリ総合ランク1位につける日本の伊東大貴(雪印)が優勝。単独トップに躍り出た。

 翌29日の第7戦では、各国のトップ選手が参加を見送る中、マリッシュ以外のトップ選手を日本に送り込んできたポーランドが、今冬の台風の目を予感させるようなワンツーフィニッシュ(優勝:カミル・シュトッホ、2位:ダビド・クバツキ)。地元・長野県出身の湯本史寿(東京美装)が3位に食い込み、開催国の意地を見せた。

 この白馬大会で、国際スキー連盟(FIS)のジャンプ競技統括責任者、ウォルター・ホーファー氏の隣で大会運営に携わっていた日本人女性がいた。女子ジャンプのコンチネンタルカップ(以下コンチ杯)でコーディネーターを務める吉田千賀さんだ。

 スキージャンプは、その危険と背中合わせのダイナミックさゆえに「男子限定の競技」と思われがちだが、その競技に魅せられた女子選手も日々戦っている。1999年に本格的な女子の大会「FISレディース・グランプリ」がスタートすると、2005年にはコンチ杯へと発展。現在、女子コンチ杯は冬シーズンを通じてのみならず夏にも試合が組まれるまでになった。

 2009年のノルディック世界選手権(リベレッツ/チェコ)では初めて女子ジャンプが採用され、来季からはついに女子ジャンプのワールドカップ(W杯)もスタートする。

 この急成長を遂げている女子ジャンプにあって、その最前線にいるのが吉田さん。ドイツなどでは、ジャンプのテレビ中継で吉田さんが映し出されると「あっ、あれは女子ジャンプのチカ・ヨシダですね」とコメントが入ることもあるほどの、知られた存在でもある。日本人女性がコーディネートする女子ジャンプの世界。吉田さんに女子ジャンプの「現在」と「未来」について聞いた――。

ジャンプとの偶然の出会い

コンチ杯の公式記録の左上には「Coordinator YOSHIDA Chika, FIS」とクレジットが入る 【スポーツナビ】

――まずは、吉田さんが担当されているコーディネーターという仕事について教えてください

 ジャンプではW杯、コンチ杯、その下のFISカップなど、カップごとに総括する責任者がFISから派遣されています。そこでシーズンを通じて大会をコーディネートしていくのがコーディネーターの仕事、言うなれば「現場責任者」です。

――女子ジャンプのコーディネーターをされている時はFIS所属ということになりますが、吉田さんは古くから男子ジャンプの「チームジャパン」の一員でもありますよね。そこから女子ジャンプに関わるようになったきっかけは?

 スキーと最初にかかわるようになったのは長野五輪(98年)の前年です。当時、私はオーストリアのインスブルック大学でスポーツ科学を勉強していました。そこでたまたまスキー関係者と知りあったのですが、長野五輪の組織委員会が通訳を探している話を聞き、(ドイツ語ができた私は)「ぜひやりたい」とかかわるようになりました。五輪プレ大会でスキージャンプ、ノルディック複合、スノーボード、アルペンなどで、競技通訳をし、五輪本番ではノルディック複合のレースディレクター(レース責任者)の通訳を務めました。

 それが縁で、翌年(99年)のノルディック世界選手権(ラムソー/オーストリア)の時に日本スキー連盟(SAJ)から通訳兼コーディネーターを依頼され、選手団の宿手配や大会運営組織委員とのやり取りなどを任され、そこからSAJとの付き合いが始まるようになりました。

 その後、アルペン、ノルディックの世界選手権でもコーディネーターを務め、02/03シーズンに日本ジャンプチームの体制が一新された時に、語学面や運営組織委員とのやりとりでスタッフが必要となり、04年から日本ジャンプチームに帯同するようになりました。五輪で仕事をしたかったけれど、ジャンプは全く知らなかったので本当に偶然なんですよね。

 そして、日本ジャンプチームに帯同するうちに、今度は08年の夏にFISから「女子ジャンプで女性コーディネーターを探しているのだが、やってみないか?」と声をかけられたのです。

「日本チーム」と「女子ジャンプ」という二足のわらじ

つかの間の里帰りとなった日本でも白馬大会の大会運営として、休む間もなくジャンプの試合を演出し続ける吉田さん(隣はホーファー氏) 【小林幸帆】

――FISから声がかかった時、すぐに決心がつきましたか?

 まず感じたのは「光栄だ」ということですね。そして「困った」と……。というのも、私はSAJと契約を交わしていたので、自分の一存では決められなかったんですね。そこで、SAJとFISで話をつけてもらうことになりました。

――「女子ジャンプ・コーディネーター」をやりたいという気持ちはありましたか?

 間違いなく「やりたい」と思いましたね。すごく光栄。でも恐かった。できるかなと……。その仕事を見ていて責任が重いものだということは分かっていましたし……。ましてや日本人の私にできるのだろうかと思いました。

――不安で特に大きかったのは?

 自分がジャンプ経験者ではなかったことですね。でも、それをホーファー(上述のジャンプ競技統括責任者)に言ったら「私もジャンプ経験者ではない」と。それで気持ちが軽くなりました。FISの人たちとは仲良くしていたので、「私を全面的にサポートしてくれる」、「困ったことがあれば助けてくれる」ということも分かっていました。

――話し合いの結果「女子ジャンプ・コーディネーター」の職を引き受けることに?

「日本チーム」と「女子ジャンプ」という二足のわらじをはくことになりました。当時は、両方うまく回ればいいなと思いながら始めました。09年のノルディック世界選手権(リベレツ/チェコ)では、私は女子ジャンプの仕事で日本に行かねばならず、男子ジャンプチームの団体銅メダル獲得を見られないなんてこともありましたね(笑)。

――引き受けるにあたって資格なども取られたと聞きました

 2008年の秋にドイツでテクニカル・デリゲート(=技術代表。ゲート設定や信号出しなどが主な仕事)の資格を取りました。現場を他のテクニカル・デリゲートと一緒に回ったりもしながら現場実習をやり、そのシーズンのコンチ杯開幕戦パークシティ(米国)が初仕事となりました。

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著者プロフィール

1975年生まれ。東京都出身。京都大学総合人間学部卒。在学中に留学先のドイツでハイティーン女子から火がついた「スキージャンプブーム」に遭遇。そこに乗っかり、現地観戦の楽しみとドイツ語を覚える。1年半の会社員生活を経て2004 年に再渡独し、まずはサッカーのちにジャンプの取材を始める。2010年に帰国後は、スキーの取材を続けながら通訳翻訳者として修業中。

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