マラドーナはどこへ行く

失意のW杯・南アフリカ大会

沈黙を守っているマラドーナの次なる向かう先は…… 【写真:ロイター/アフロ】

 まるで人生の果てしないゲームのように、ディエゴ・マラドーナは失意を乗り越え、再び前に進もうとしているようだ。念願のアルゼンチン代表を率いた1年9カ月は、彼にとってフラストレーションと喜びの交錯した日々だっただろう。そして、迎えた結末は、監督としてのキャリアに傷をつけるものとなった。それでも、その不屈の精神は、マラドーナを新たなチャレンジへと導くことになるのだろうか。

 アルゼンチン代表がワールドカップ(W杯)・南アフリカ大会の準々決勝でドイツに0−4と粉砕させられ、大会から姿を消したのは7月3日。それからまだ3カ月も経っていないが、マラドーナにとっては随分と長い時間だったかもしれない。よく知られているように、かつてのフットボールの天才は、アルゼンチン代表を率いて戦った南アフリカの地から母国に戻って以来、入り組んだ状況に翻弄(ほんろう)された。

 W杯敗退が決まった後の会見で自ら監督を辞する意向を示唆したマラドーナは、なかなか敗戦のショックから立ち直ることができずにいたように見えた。それでも、AFA(アルゼンチンサッカー協会)は当初、マラドーナに新たな4年契約を提示すると発表。その後、契約延長はしないと手の平を返した。AFA会長のフリオ・グロンドーナは、マラドーナを2014年のW杯ブラジル大会から引き離す、完ぺきな“言い訳”を見つけたのだ。指揮官が求めていたコーチ・スタッフ陣を拒否することで、マラドーナが自ら代表から去るように仕向けたのだった。

後任監督はバティスタで決まりか

 だが、マラドーナの代表からの退任は、AFAにとって予想以上に高くつくこととなった。暫定監督に就任したセルヒオ・バティスタがこのまま次のW杯までアルゼンチン代表を率いるのかも含め、後任監督をめぐってはいまだ議論が冷めやらないからだ。今のところ、10月に代表のGM(ゼネラル・マネジャー)を務めるカルロス・ビラルドが3、4人の候補リストを提出し、AFA理事会によって吟味されることになる。

 とはいえ、本命がバティスタであることに間違いはないだろう。暫定監督として指揮を執ったアイルランド戦とスペイン戦にそれぞれ、1−0、4−1で勝利したことで、AFAはバティスタの手腕を評価している。特に、親善試合とはいえ、ホームのブエノスアイレスで世界チャンピオンに完勝したことは、大きなインパクトを残した。スペイン戦後、地元紙『オレ』はバティスタが2011年7月のコパ・アメリカ(南米選手権)後まで、代表監督を続投する可能性が高まったと報じている。

 この試合では、南アフリカでは“セレステ・イ・ブランコ”(水色と白)のユニホームに身を包むことがかなわなかったハビエル・サネッティ、エステバン・カンビアッソ、ガブリエル・ミリート、エベル・バネガといった面々が代表メンバーに名を連ねた(フェルナンド・ガゴは負傷のため不在だった)。

沈黙を破るのは……

 マラドーナは幻滅するたびに沈黙を守ってきた。W杯の舞台から去り、失意のうちに帰国した時もそうだった。そして今回も、代表監督退任が決まった翌日の7月28日にビラルドを“裏切り者”、グロンドーナを“うそつき”と糾弾する声明を会見で読み上げて以来、約1カ月半にわたって表立った発言は行っていない。

 それでも、親しい友人や代表でアシスタントコーチを務めていたアレハンドロ・マンクーソらとは、定期的にコンタクトを取っている。自らが考案したアクロバティックな7人制サッカー「ショーボール(Showbol)」のチームの集まりにも徐々に参加し始めたようだ。11月には慈善活動のため中国各地を訪問し、チャリティーマッチなどを行う予定。また、50歳になる10月30日には、かつてプレーしたナポリの本拠地サン・パオロでチャリティーマッチを開催する計画を立てており、友人たちと誕生日を祝うのをとても楽しみにしているようだ。

 今月9日には、ポルトガルサッカー協会(FPF)がカルロス・ケイロス監督を解任したのを受け、マラドーナがポルトガル代表を率いる意欲を持っていると報じられた。これに関し、マンクーソは「マラドーナの扉はどのクラブ、どの代表チームにも開かれている。ポルトガル代表という選択肢は素晴らしいモチベーションになり得る。お金の問題ではない」とコメントしている。10月のユーロ(欧州選手権)2012予選の2試合限定で、レアル・マドリー監督のジョゼ・モリーニョが指揮を執るという可能性も浮上したが、最終的にはパウロ・ベントが監督に就任することで落ち着いた。

 マラドーナは今後、どこへ向かうのだろうか。最も重要なことは、マラドーナはこれまで、数々の健康上の問題を抱え、94年のW杯米国大会ではドーピング疑惑でFIFA(国際サッカー連盟)から15カ月の出場停止処分を課されたこともあったが、そのたびに戦いを挑み、前へと進んできたということだ。その内なる炎が、マラドーナという人の人格を作り上げているのだろう……。

<了>
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著者プロフィール

アルゼンチン出身。1982年より記者として活動を始め、89年にブエノス・アイレス大学社会科学学部を卒業。99年には、バルセロナ大学でスポーツ社会学の博士号を取得した。著作に“El Negocio Del Futbol(フットボールビジネス)”、“Maradona - Rebelde Con Causa(マラドーナ、理由ある反抗)”、“El Deporte de Informar(情報伝達としてのスポーツ)”がある。ワールドカップは86年のメキシコ大会を皮切りに、以後すべての大会を取材。現在は、フリーのジャーナリストとして『スポーツナビ』のほか、独誌『キッカー』、アルゼンチン紙『ジョルナーダ』、デンマークのサッカー専門誌『ティップスブラーデット』、スウェーデン紙『アフトンブラーデット』、マドリーDPA(ドイツ通信社)、日本の『ワールドサッカーダイジェスト』などに寄稿

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