錦織圭、もがいて、もがいて、手にした“強さ”=全米テニス

内田暁

強豪からの勝利と、途中棄権と

2回戦で強豪を破りながら、3回戦で途中棄権となった錦織圭。しかし、戦いを終えた姿は、逞しさを増していた 【写真は共同】

 バックハンドから放たれたショットが、糸を引く様にコートを横切り逆サイドのフェンスへと達したとき、錦織圭(ソニー)は両手の人差し指を天へ突き立て、コートは観客の悲鳴に近い歓声と万雷の拍手で、文字通り、震えた。世界13位のマリン・チリッチ(クロアチア)を相手に、35度を超える猛暑の中で演じた、5時間に達する“死闘”。その代償が、約43時間後に始まった3回戦での、途中棄権による敗退であった。

 もちろん、完売となった週末の全米オープンのプラチナチケットを手にし、錦織の3回戦を心躍らせながら観に来たファンにとって、この結果は残念の一言だろう。日本で「錦織、世界13位を撃破」というニュースを見た人たちは、もしかしたら、次の試合も勝てるだろうと楽観視していたかもしれない。
 だが、観客席に座っているだけで終始滝のような汗が吹き出し、意識すら朦朧(もうろう)としかける中で対チリッチ戦を観た身としては、次の試合の結果は、ある程度は予測可能なものでもあった。
 世界のトップのみが集う最高峰の大会において、酷暑の中、一瞬の集中力を切らすことも許されず、コーチと話したりアドバイスをもらったりすることも禁じられる……。そのような状態で5時間戦うことが、体力のみならず精神的にも、どれだけ選手を疲弊させることか。
 それは、試合後のチリッチの憔悴(しょうすい)しきった表情や、「あのような暑さの中では、走ることも、高いレベルのプレーを維持するのも、息を吸うことすら困難」という言葉に如実に表れている。「プレーの質以上に、体力の勝負だった」と消え入りそうな声で吐き出す敗者のつぶやきを耳にしたとき、この試合の過酷さの一端に触れた気がした。

 3回戦の対アルバート・モンタネス(スペイン)戦では、錦織の異変は、試合開始当初から明らかだった。今大会を通じて好調だったサービスが、全く打てていない。トスをあげた後に体を十分に反らすことも、打つ際に飛び上がることも満足にできず、サービスに角度を与えることができなかった。また抜群のフットワークを誇る錦織が、少しでも左右に振られると、なすすべもなくボールを見送る。第1セットを2−6で落としたところでトレーナーを呼び、そして第2セットを1−2とリードされたところで、錦織は相手ベンチへと歩み寄ると、途中棄権を告げる握手を求めた。

もがき苦しんだシーズンの成果

 結果としては、2年前の全米オープンに勝ち星1つ足りない、3回戦敗退。しかも、左足太ももにけがを負った状態で帰路につくこととなったが、それでも試合後の錦織に、悲壮感はなかった。それは、チリッチ戦勝利という形でひとまずの集大成を見たこの夏の連戦で、自身の成長を、リアルに感じることができたからだろう。
 6月のウィンブルドンでは、初戦で世界1位のナダルと対戦し、「自信になった」と納得の敗戦を経験した。だがそれは、“敗れて元々”の相手に対し恐れることなくぶつかっていった結果であり、そしてやはり、負けは負けである。
 真に勝利を求めた夏のハードコートシーズンに入り、錦織は、大きな壁にぶつかった。改善に取り組んでいるサービスに安定感を欠き、攻め急いで自滅する場面が幾度かあった。また、“勝つためのテニス”と“求める理想のテニス”の狭間(はざま)で、葛藤にも苦しんだ。当初のプランでは、全米オープンまではATP大会(最高レベルのツアー大会)に出場し調整する予定だったが、思うような結果を残せず、下部ツアーに参戦するなどの軌道修正も余儀なくされたのだ。

 だが結果として、この路線変更がプラスに作用する。全米に照準を合わせ調整してきた体調面の充実が勝ち星につながり、徐々に、錦織が目指す理想のテニスがコート上で実践できるようになってくる。
「チャレンジャー(下部ツアー)に出て、また自分のテニスを一段階上げることができたので、最後の最後に良い調整ができたと思う。上がり調子で(全米オープンに)入ってこられた」
と言うように、心身共に上向きの状態で大会を迎え、「まずは最大の目標」だった予選を突破。本選出場を決めた直後には、
「自分をもっと上に押し上げるためにも、強い相手とやってみたいと、ふと思った。自分のテニスがどこまで通じるのか……今は自信も出てきているので、試してみたい」
と口にするまでに、自信も深めていたようだ。その自信は、チリッチという真のトップ選手を破ったことで、確信に変わったことだろう。

「今回は、5時間も暑い中で試合をしたので、(リタイアしたのは)しかたないと思っています」
 試合後、さばさばした表情で語るその口ぶりに、強がりや虚勢の色は感じられない。
「あの試合(チリッチ戦)を勝てたことに大きな意味があると思う。それに、あれだけの試合をしながら、足以外はひじも腰も何ともないので、体は強くなっていると感じている。今回のけがは、あまり深刻には考えていない」
 という言葉も、体調面を心配するファンにとっては、何よりもの精神安定剤だろう。
 昨年8月にひじにメスを入れた錦織は、1年前の今ごろは腕を動かすことすらままならず、全米オープンの情報からも耳目を背けてきた。そのつらさ、そしてそれを乗り越えてきた道のりを思えば、今回の途中棄権など、慌てるほどのことではない。

「リタイアするのは悔しいけれど、それでもグランドスラムでこれだけ結果が残せたのは、テニスが良くなってきている証拠じゃないかと思います」

 失った目先の勝ち星より、得たものの方がはるかに大きい――日に焼け、逞しさを増した凛とした20歳の面差しが、そのことを雄弁に物語っていた。

<了>
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著者プロフィール

テニス雑誌『スマッシュ』などのメディアに執筆するフリーライター。2006年頃からグランドスラム等の主要大会の取材を始め、08年デルレイビーチ国際選手権での錦織圭ツアー初優勝にも立ち合う。近著に、錦織圭の幼少期からの足跡を綴ったノンフィクション『錦織圭 リターンゲーム』(学研プラス)や、アスリートの肉体及び精神の動きを神経科学(脳科学)の知見から解説する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。京都在住。

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