勝負師・クルム伊達、限られた時間を自覚して=全米オープンテニス 第2日

内田暁

コートに満ちた緊張感

1回戦、04年覇者のクズネツォワに敗れたクルム伊達(写真)。しかし、結果には表れない衝撃をコートに刻んでいった 【Getty Images】

 気温は35度を記録し、湿度も70%を超えている。うだるような暑さ……という表現がふさわしいが、それでも、全米オープン会場で3番目に大きいグランドスタンドの空気はピンと張りつめている。クルム伊達公子(エステティックTBC)の試合が行われるとき、そこには常に、斬るか斬られるか、のるかそるかの、息を吸うのもためらわれる程の緊張感が満ちている。

 クルム伊達を語るとき、もはや年齢に言及するのはナンセンスだと思えるが、彼女に残された時間がそう長くないというのは、厳然たる事実としてある。
「あと何年、このレベルが保てると思うか?」
 そのような海外記者からの質問に「2年くらいはやりたいが、大きなケガをしてしまったら、そこで終わり」と答えたように、本人も、限られた時間を自覚しているのは間違いない。
 だからこそ、1つの試合、1つのポイントに懸ける執念と集中力には鬼気迫るものがあり、その帰結として、対戦に向け用意する戦略にも、妥協を許さぬ厳密さと、勝利への飽くなき執着心が練り込まれることになる。

 クルム伊達は常々、「最近の女子テニスはパワー一辺倒で、スライスやネットプレーなどのテクニックを使う選手が少ない」と、昨今のテニス界の趨勢(すうせい)に苦言を呈してきた。と同時に、現代テニスでは希少となったそれら練達の技と、対戦相手に応じ豊富な手札を使いこなす戦術眼は、体格とパワーで劣る元世界4位が“今”を戦う上での生命線でもある。

強敵を相手に、伊達が選んだハイリスク

 今回の全米オープン初戦で対峙(たいじ)することになった世界13位のスベトラーナ・クズネツォワ(ロシア)を、クルム伊達は以下のように分析していた。
「回り込むフォアハンド(バックハンド側に来たボールを、後方に回り込んでフォアハンドで打つこと)を得意とし、バックのダウンザライン(ストレート)もうまい。また、深いボールを走りながら、クロスに切り返すフォアのショットも強烈」
 その情報を踏まえた上で用意した対策は、1つには、「回り込むフォア、そしてバックのダウンザラインを打たせないために、あえて、フォアでのクロスの打ち合いも積極にしていく」ことであった。クルム伊達は基本的に、バックのショットを得意としている。だがクズネツォワ相手にバックのクロスの打ち合いをしては、相手の得意な形に持ち込まれる確率が高くなる、と踏んだのだ。高いリスクは覚悟の上の選択である。

 さらには、クズネツォワのクロスへの切り返しを封じるために、「深く返すのではなく、サービスライン辺りに短いクロスを打つ」ことも心掛けた。テニスでは、相手のコート深く、そして左右のコーナーギリギリを狙い打つのは、ある意味定石ではある。だがそれでは、運動量と脚力に勝る相手に走り勝つことはできない。だからこそ、あえて短いショットを織り交ぜながら、前後に揺さぶることで活路を見いだそうとしたのだ。

 クルム伊達のそれらの狙いは、6年前の同大会優勝者を、間違いなく戸惑わせた。「彼女のラケットの振り方はとても変わっていたので、慣れるまでに時間がかかった」とはクズネツォワの弁だが、元世界2位の彼女が困惑したのは、テークバックをほとんど取らない独特のフォームもさることながら、そこから繰り出されるボールのことごとくが、自身の長所を封じるかのようなショットだったからだろう。苦戦した理由が「慣れ」だけならば、第1セットを取りながら、第2セットを奪われたことの説明がつかない。

 第2セット終盤から第3セット序盤にかけてのクルム伊達の攻めは、完全に相手を上回った。
 観客が息を飲むほどに美しいドロップショット。
 戦前の狙い通り、コートを斜めに斬り裂くように決まる鋭角のクロス。
 全ての打球が、明確な意図と精緻(せいち)な戦略、そして勝負師としての“賭け”を全方位に放っていた。

 最終的に勝敗を分けたのは、少しずつパワーに押されたクルム伊達が犯した、いくつかのミス。そして、徐々に相手の狙いを察知し、適応し始めたクズネツォワの懐の深さだった。 
 試合後、クルム伊達は、「第3セットもスコアは1−6だが、競った内容。相手にいくつかのミスが生じていれば、自分の流れになった可能性は高い」と手応えを口にした。だが同時に、「それでも勝てなかったのは、相手の実力の高さであり、勝てないのは私の実力」とも諦観(ていかん)する。
 そのいずれもが、真理だろう。

 勝敗が明確に決まる勝負の世界において、記録として残るクルム伊達の今大会の成績は、“フルセットの末の初戦敗退”……それだけある。
 だが、記録以外に彼女がニューヨークに残したものは、間違いなくある。一打のボール、1つのポイントに込められた濃密なる意思と勝利への渇望感は、数字以上の衝撃と興奮を、見た人々の胸に刻んだはずだ。

<了>
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著者プロフィール

テニス雑誌『スマッシュ』などのメディアに執筆するフリーライター。2006年頃からグランドスラム等の主要大会の取材を始め、08年デルレイビーチ国際選手権での錦織圭ツアー初優勝にも立ち合う。近著に、錦織圭の幼少期からの足跡を綴ったノンフィクション『錦織圭 リターンゲーム』(学研プラス)や、アスリートの肉体及び精神の動きを神経科学(脳科学)の知見から解説する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。京都在住。

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